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日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

差別、あるいは人間らしさ

東野圭吾『手紙』を読んだ。

兄が強盗殺人を犯したがゆえに不当な扱いを受け続ける直貴に、勤務先の社長が語る言葉……それがこの小説のすべてだろう。

「差別はね、当然なんだよ」平野社長は静かにいった。
 直貴は目を見張った。差別はしていないという意味のことをいわれると思ったからだ。
「当然……ですか」
「当然だよ」社長はいった。「大抵の人間は、犯罪からは遠いところに身を置いておきたいものだ。犯罪者、特に強盗殺人などという凶悪犯罪を犯した人間とは、間接的にせよ関わり合いにはなりたくないものだ。ちょっとした関係から、おかしなことに巻き込まれないともかぎらないからね。犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ。自己防衛本能とでもいえばいいかな」


犯罪者やある種の病気に対する差別……それはおそらく極めて「人間的」なことなのだと思う。
犯罪者や(感染性の)病人に対して、危害を加えられるかも知れない、病気が感染するかも知れない……そんな恐怖心を持ってしまうのは、人間として全く自然なことだと思うからだ。
それはまさに自己防衛本能。人類が生き残るために心の奥深くに植え付けられたプログラムなのであろうし、そのような心理があるからこそ人類は存続し得たのだろう。

もちろん道徳的には「差別」は間違いだ。否定されるべきものだ。

だが、それが(本能として人間に備わっているものという意味で)「人間的」なものだとすれば、「人間らしいあり方」とはいかなるものなのだろうか。

差別を肯定するつもりはない。
だが、それでもふと疑問に思ってしまうことがある。
本能を捨て去ってしまうこと。「道徳」というプログラムに忠実な生き物になること。いわば「ロボット」になること。
それが「人間らしいあり方」なのだろうか、と。
by usagi-kani | 2007-07-18 04:50 | 本・ことば