人気ブログランキング | 話題のタグを見る

子猫殺し、あるいは人間の強さ・弱さ

直木賞作家・坂東眞砂子さんが8月18日の日経新聞夕刊のコラム「プロムナード」に寄稿したエッセイ「子猫殺し」に対して、批判や抗議が殺到しているという。ネット上でも話題になっているようだ。

恣意的な抜粋になることを避けるために全文を引用する。

     ************

 こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
 避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)

     ************

これを読んで、「人間の権利」という言葉が思い浮かんだ。
筆者は言う、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」と。
だが、そもそも他の動物を飼う権利が人間にあるのだろうか。

飼う権利があるなら、避妊手術する権利も生まれた子を殺す権利もそれに付随して「ある」ことになる。動物を飼うのは、その動物の「生」(人間で言えば「人生」。猫だと「猫生」になるのか?)を全て引き受けることであり、その「生」の中には、当然「生殖」も「死」も含まれているからだ。
飼い猫にも人権ならぬ猫権があるはずという理論は成立しない。猫は人間に飼われることなど望んではいないのだから、猫権があるなら「飼う」行為自体が否定されるから。

「避妊手術も生まれた子を殺す権利もない」とする筆者は、人間に動物を飼う権利があるとは考えていないことになる。
しかし、飼いたい。だから、飼ってしまう。
飼うこと自体が間違いなのだから、避妊も子猫殺しも間違った選択肢でしかない。
どっちを選んでも間違いなら……筆者は「殺しの痛み・悲しみ」とともに子猫殺しのほうを選択した、ということだろう。

私には、この筆者の言うことは(感情的にはともかく理論的には)正当に思えるのだが……。
(もちろん、飼う権利がないのに飼ってしまうというのは矛盾である。しかし、生き物を飼いたい気持ちは人間の本質的なものであり、その矛盾を指摘することは人間そのものの否定になるので、ここでは触れない。)

これに不快感を覚える人は、「避妊手術」という自分たちの選択(そしてそれを選択した自分たちの人間性)を否定されたと感じるているのではないだろうか。
さらに言えば、自分たちの中にある、動物を殺す残酷さと無関係でありたいという気持ち、つまり「いい人」でありたいという気持ちを暴露されたように感じるからであろう。言い過ぎだろうか?

「子猫を殺す権利はないから、避妊手術をするのだ」と「生命の大切さ」を謳うなら、野良猫・野良犬はどうする? 彼らを殺す権利だってないはず。生きていけるようにエサを与えればいいのか?

結局みんな「いい人」になりたいのだろう。「動物を殺すなんてとんでもない」と声高に言うことで、自分の「優しさ」を確認したいのだ。

かく言う私も、「子殺しに伴う痛み」を引き受ける強さはない。そして、その「弱さ」ゆえに避妊手術をしてしまうだろう。生まれた生命を始末するより生ませない方がはるかに精神的には楽だからだ。
精神的苦痛を引き受けたくないという「弱さ」、それが避妊手術の根底にあるものではないだろうか。

ただ、私はその「弱さ」を自覚していたいと思う。「弱さ」を「優しさ」や「正しさ」と勘違いして、「いい人」ぶりたくはない。違う選択をした「強い」人を非難したくはない。「私は子殺しに伴う痛みを引き受ける強さはありません。だから、避妊手術受けさせます」と素直に認めたいと思う。

筆者が今回この文章を書いたのは、筆者自身も弱くなった、つまり「子殺しに伴う痛み」に耐えられなくなってきたからではないか。そんな自分に対しての「喝」がこの文章ではないか。たぶん、強くありたい人なのだろう、この筆者は。

そんなことを思うのだが……。
Commented by VIVA(お礼) at 2006-08-28 20:52 x
先日は拙ブログにコメント頂戴し、ありがとうございました。教育関係でいらっしゃるのですね。仲間ですね。これからもよろしくお願いします。
Commented by usagi-kani at 2006-08-29 05:38
VIVAさん、わざわざコメントありがとうございます。
本を選ぶ際の参考にさせていただいてます。
そうですか、VIVAさんも教育関係者だったのですね。
これからもよろしくお願いします。
Commented by mino-evilkind at 2006-09-02 10:21
このテーマから、「飼う権利」にコメントされた点、新鮮に感じて読ませていただきました。私自身はこの作家の行為や記事にはあまり興味が持てず、きっこさんあたりに端を発した個人の感情的反感(知り合いのネコ好きに、「ネコ好きを怒らせたら怖いよ」と言われた)の強さに、少し違和感を覚えていました。実はここでコラムの全文を初めて読みましたが、フィクションを生業とする作家が、自らのことを書いて、それだけでもつまらないのに、読んでも何もおもしろくなく、結局正当化の目的しかない。しょーもないなあと感じました。

先日は私のブログにコメント、ありがとうございました。私に書いていただいたところにも、様々な視点で物事をみておられることがわかりました。私も、今話題の岐阜県の教育公務員です。

今後もよろしくお願いいたします。
Commented by usagi-kani at 2006-09-03 05:56
minoさん、コメントありがとうございます。
minoさんの、ひねりの聞いた文章、楽しみにさせていただいています。

このニュース(?)は最近の中で最も関心を持ったのですが、minoさんはそうでもなかったのですね。やはり個人の興味には違いがありますね。

これからもよろしくお願いします。
by usagi-kani | 2006-08-27 06:43 | 日記 | Trackback | Comments(4)