日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

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もう飽きた…

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。

私は「好きな作家は村上春樹」と公言するほどの彼のファンであるが、この作品を読んでの感想は「またかよ。もうたくさんだ。」というもの。

主人公のキャラも、物語の展開も、登場人物の会話も、既視感ありあり。村上春樹らしいと言えばそうなのだろうが、これまでの作品から部分部分を引っ張ってきて一作にまとめました、みたいな印象を受けた。「ノルウェイの森」と「国境の南、太陽の西」を足して2で割ったような。

その意味で、初めて村上春樹の作品を読むという人には「これが村上春樹か!」とわかりやすくていいのだろうが、彼の作品を読み続けてきた人には私と同様「またかよ」という感が否めないのではないだろうか。

とにかく新しさが全く感じられなかった。

また、クロ(エリ)がなぜ主人公に沙羅を絶対手に入れろと言うのかも不明。二股をかけてる(しかも不倫らしい)女性との結婚なんて普通は勧めない。一体なぜそんな常識外れのことをするのか。

さらに、緑川さんの「死のトークン」も結局なんだったのか。そのあたりを読んでる時は、これがこの物語の中核になるのかと思ったが、途中から全く出てこなくなってしまったし。「回収できなかった伏線」ってやつなのかな。

今回も買わずに図書館から借りたのだが(それで読むのが遅くなったのだが)、正解だった。買って読むほどの価値はない。
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by usagi-kani | 2013-05-23 06:03 | 本・ことば | Comments(0)
村上春樹著『村上ラヂオ』を読んだ。
後書きによると、女性雑誌「anan」に連載したエッセイをまとめたものらしい。
軽妙な語り口で書かれていて、また一つ一つが短いので飽きるということもなく、あっという間に読み終えた。本当に肩の力を抜いて書いたエッセイって感じで、何かが残るということもなかったけど。

ひとつ印象に残ったのは、常体(だ・である調)と敬体(です・ます調)の混用。基本的には常体だが、読者に訴えかけて(問いかけて)いる部分は敬体が使われている。
私もこのブログで同じような表現をしたことがあった。知らない読者に問いかけるのに常体はかえって不自然な感じがするからだ。
私の大好きな村上春樹の文章でもやはり文体の不統一には違和感があった。出てくるたびに気になってしまった。
文体は統一した方がいいってことですね。(って敬体を使ってみたけど、どうでしょう?)
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by usagi-kani | 2012-02-09 05:57 | 本・ことば | Comments(0)

最近読んだ本

どういうわけか読書欲が高揚してきて、普段の3倍くらいのペースで本を読んでいる。普段は月2、3冊だから、月10冊に近いペースだ。今月は10冊を越えたかもしれない。
本を読むのはもちろんよいこととして感じているから、困惑しているわけではないのだが、なぜ急に読書欲が高まったのかは自分でも不思議だ。

■『ノルウェイの森』(村上春樹)
読むのはもう何度目だろう。何回読んでも、素晴らしい小説だと思う。
初めて読んだときは「直子」の印象が強かったのだが、読み返すたびごとに次第に「緑」が魅力的に思えてくる。なぜだろう?

■『光の帝国』(恩田陸)
超能力(?)を持つ常野一族をめぐる十の物語からなる短編集。
ネットのレヴューの評価は高めだが、個人的には読むほどの価値はなかったな。

■『純愛時代』(大平健)
「純愛」というと、身体の関係のない精神的な恋愛を思い浮かべる年代(自分だけ?)なのだが、やはり時代は変わったようだ。恋愛にどこまで本気でのめり込むか……精神科医の患者の事例集だから、登場人物たちは皆精神を病んでしまうのだが……が「純愛」かどうかを決める。計算や抑制の働く恋愛は「純愛」ではない。肉体関係の有無は関係ない。
それにしても、単なる症例集にしか私には思えない。もっと分析があってもよかったのではないか。

■『きっこの日記』(きっこ)
数ヶ月前からブログを読み始めた。古い記事も読んでみたいと思っていたので購入した。
買って損したとは言わないが、わざわざ買わなくてもよかったかな。続編も出るようだが、もう買わない。ネットで読むだけで十分。

■『女たちのジハード』(篠田節子)
数名の独身女性の、恋愛、結婚、仕事、要するに人生を描いた物語。
個人的にはすごく好きな小説で、読み返すのは4回目くらいだろうか。女性ってこういう考え方、感じ方をするのかと「学習」しながら読んでしまうのだが、果たしてどの程度正確に「女性」を描いているのか不安になることもある。間違った女性観を植え付けられている可能性もあるから(笑)。
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by usagi-kani | 2007-01-31 05:45 | 本・ことば | Comments(2)
 読み返すと、評価が全く変わる本がある。言うまでもなく、本に書かれていることは変わらない。変わったのは自分だ。
 自分の変化を知る……それが本を読み返す楽しみのひとつだろう。

 今回、村上春樹『国境の南、太陽の西』を読み返した。

 この作品を読むのは2回目である。つまり、一度読んだきり読み返していなかった。村上春樹の作品は大抵数回は読み返している。特に『風の歌を聴け』は30回いや40回は読んでいるはずだ。それなのにこの作品を読み返さなかったのは、最初に読んだときの評価が低かったからである。具体的にどう感じたかまでは覚えてはいない。が、読み返すに値しない「つまらない作品」として長い間本棚の奥に放置されてきた。所在不明にならなかったのが不思議なくらいである。

 それを今回たいした理由もなく手にしてみたのだが……。
 評価が一変した。これは村上春樹の中でも相当上位にランクされるべき作品ではないか、と。

 最初にこの作品を読んだのは14年前。そのときの私はこの本から(おそらく)何も読み取ることができなかった。37歳の主人公に何も共感すべきところを見つけることはできなかった。
 だが、今回読み返して、私が感じたのは、「この主人公は私だ」ということ。私自身が描かれている、と感じた。
 村上春樹は私より14年早く生まれている。だから、彼がこれを書いたのはちょうど現在の私の年齢ということになる(厳密に言えば、この本の発行が14年前だから、執筆はその数年前ということになるのだろうが)。
 14年掛けて私は彼に追いついたのだ。そして、14年前に彼が感じていたものを現在の自分も感じているのだ。だから、「主人公は私だ」との感想を持つに至ったのであろう。
 14年前の私にはわからなくて、現在の私にわかるもの……それは主人公が感じている欠落感・喪失感である。
 主人公は言う、「僕は幸せだったと言ってもいいと思う。でもね、それだけじゃ足りないんだ。僕にはそれがわかる。いちばんの問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢えていて、乾いているんだ。」
 まさに、これは、今の私だ。今の私が感じていることだ。

 14年前の私には「飢えていて、乾いている」部分はなかった。いや、おそらくはあったのだろうが、視線はそこには向かわなかった。当時の私は、どちらに傾くかわからない現在という不安定なシーソーの上でバランスを取るのに必死であったし、視線はひらすら未来をみつめていたと思う。だから、気づかなかったのだろう。「飢えていて、乾いている」部分がないほど満たされていたはずはないし、そんな人間がいるとは思えないから。
 そして、現在の自分。仕事も家庭もあり、いわば安定した地面に下り立った自分は「飢えていて、乾いている」部分の存在に気づいてしまっている。そして、主人公と同様、それを埋めてくれるもの(人)を求めてもいる。果たして私にとってそれは何(誰)なのか……。

 主人公の「飢えていて、乾いている」部分を埋める存在=島本さんは「幽霊」なのではないか。少なくとも(主人公と再会後の)どこかの段階では「幽霊」になっていると思う。
 島本さんが「幽霊」すなわち「死の世界の住人」であるとすれば、主人公が島本さんを求める心理は「死への誘い」に他ならない。
 欠落感・喪失感を満たすことはできない。人はそれを抱えながら生きていくしかない。人がそれから逃れうるとすれば、それは「死」でしかない……そんなことを伝えようとした作品ではないか。

「死」が嫌なら……この欠落感・喪失感を抱えながら生きていくしかない、のだな。
 40歳前後とはそんな覚悟を決める年齢なのかもしれない。
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by usagi-kani | 2006-12-30 06:46 | 本・ことば | Comments(9)

村上春樹『鏡』論

主人公「僕」が体験した恐怖。鏡に映った自分を「僕以外の僕」だと感じ、さらにその鏡像に支配されそうになる。手にしていた木刀を投げつけて鏡を割ることで、かろうじてその危機を逃れる「僕」。そして、翌朝その場所に行ってみると、鏡などなかったことを知る……

現実には存在せず、しかも「僕以外の僕」を映し出す「鏡」。それは一体何なのか。

恐怖体験の夜、「僕」は風にあおられて開閉する戸の音を「うん、うん、いや、うん、いや、いや、いや……」と表現する。「うん」と「いや」の対立。これが、何かの対立を象徴するものだとすれば、何を象徴していると考えられるだろう。
一般的には「現実の僕」と「心の中に潜む(自分でも意識していない)僕」と考えてよいだろう。その両者がせめぎ合っている、その対立を「うん」と「いや」で表している、と。

この作品だけの解釈であれば、それが正当だと思う。

しかし、ここでは敢えて別の解釈を試みてみたい。
他の村上春樹の作品、例えば『ノルウェイの森』などと絡めて解釈すると、別の見方が見えてくるからだ。

『ノルウェイの森』で描かれているふたつの対立概念(諸説はあるだろうが)は「生」と「死」である。そして、この『鏡』もやはり同様の作品であると思うのだ。(と言うより、村上春樹作品のほとんどが「生」と「死」をテーマにしていると私は考えているのだが。)

恐怖体験のそのとき、その場所で、「生の世界」と「死の世界」がクロスしたのである。「鏡」はその両者をつなぐもの、つまり(生の世界からの視点で言えば)「死の世界への入り口」として出現したのである。(そう考えると、どこに出現してもよいはずの「鏡」が、学校の「玄関」に現われたことの意味づけも可能になる。)

……僕はその時、最後の力をふりしばって大声を出した。(中略)それで金しばりがほんの少しゆるんだ。それから僕は鏡に向かって木刀を思い切り投げつけた。……

この場面は、普通に考えれば、自分を支配しようとする「鏡像」に向かって木刀を投げつけるはずである。が、「僕」は「鏡」に向かって投げつけている。
これは、「僕」が、「僕」と鏡像の間にあるもの=「鏡」が死の世界への入り口であることを感じ取ったからだ。鏡像を倒しても、入り口が残っていては「死」から逃れることにはならない。だから、「僕」は「鏡」を破壊することで「死の世界」の入り口を閉じようとしたのだ。死からより遠くに(もちろん物理的な距離ではない)逃れるために。

この考え方の問題点は、『鏡』の作品中のどこにも「僕」が死を考えるような出来事が書かれていないことであろう。自由に生きる若い青年が、どうしてこの夜に死と向かい合うことになったのか、その理由が全くわからない。だから、「鏡」を「死の世界への入り口」とする考え方は的外れに思われるだろう。
だが、そこにこそ作者の死に対する考え方が読み取れるとは言えないだろうか。「死」は我々に予告してやってくるものではない。我々はいつどこで「死」にとらえられるかわからない。我々はいわば「見えない死」に囲まれて生きているのであり、それがいつ「見えるもの」として現出するかは誰にもわからない。そう、「鏡」が突然出現したように……。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。(『ノルウェイの森』)

そして、それに気づいた人間は、おそらく無常観や虚無感にとらえられて、「生」のエネルギーを喪失してしまう。
だから、彼らが生き続けるためには、意識的に「死」から目をそらし続けるしかないのだ。それが「僕」が家に「鏡」を置かない理由であろう。「僕」は「鏡」を見ないのではなく、「死」を見まいとしているのだ。
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by usagi-kani | 2006-08-30 05:35 | 本・ことば | Comments(4)

村上春樹「沈黙」

あるクラスだけ授業が進んでしまったので、時間調整のため集団読書を行った。

読ませたのは、村上春樹「沈黙」。

彼の作品の中ではさほど知られた短編ではないのだろうが、この作品は「本物」だと思う。

短編とは言っても、読み終えるのに平均的な生徒で35分くらいかかる。読書離れが進んだ最近の生徒がこれだけの時間読書に集中するのは大変なことだと思うが、ほとんどの生徒が真剣に読んでいた。まさに「読ませる」力を持った作品である。

読後に生徒に手を挙げさせたのだが、「読んで良かったと思う人」=クラスの半数、「読んで損したと思った人」=0人 だった。
最近の子は意思表示するのが恥ずかしいのか面倒くさいのか、こういう質問に手を挙げない生徒が多い。その中で読んで良かったと手を挙げてくれたのが半数というのは破格の数字だと思う。

ネタバレになるので、詳しい話は書かない。興味を持った人には是非読んで欲しいと思う(文春文庫『レキシントンの幽霊』に入っている)。

ただ、自分のために好きな部分を抜き出しておく。

負けるわけにはいかないんだと思いました。青木に勝つとか、そういうことじゃありません。人生そのものに負けるわけにはいかないと思ったんです。自分が軽蔑し侮蔑するものに簡単に押し潰されるわけにはいかないんです。

でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしてるんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当たりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任も取りはしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。
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by usagi-kani | 2006-06-06 05:55 | 本・ことば | Comments(4)
村上春樹作『海辺のカフカ』をようやく読んだ。
ようやく、といったのは村上春樹は大好きな作家で、ほとんどの作品は出版されてすぐに読んでいたからだ。特に初期作品は初版本で購入してきた。『風の歌を聴け』は残念ながら初版本ではないが、その後は初版本で買い揃えてきた。『ねじまき鳥クロニクル』までは続いたのではないかと思う(手元にないので確認できない)。このへんから「ついていけない」感が出てきて、正直購入するほどの意欲がなくなった。だから、それ以降は買わずに図書館等で借りて読んでいる。小説はすべて読んでいると思うが、エッセイなどは読まない、そんな付き合い方になっている。

さて、『海辺のカフカ』だが、難解な小説である。著者が何を伝えたいのかわからない、という意味で。

カフカ少年の成長の物語なのは間違いないとして、ここまでシュールに書くことでなにを訴えたかったのだろう? 思春期の少年が読むべき啓蒙書を意図したのであれば(村上春樹がそんな意図で小説を書くことはあり得ないが)、もっとリアリズムが必要だろう。ここまで荒唐無稽では小説を読んで感じるものがあったとしても、それを自分にフィードバックする気にもなれないだろうから。

正直に言うと、そう丁寧に読んでいないので、思い違いがあるかもしれないが、一応私見を書いてみたい。

読みながら思ったことは、ナカタさんは戦後日本のメタファーなのではないか、ということ。
彼が終戦直前の事故で失ったもの、すなわち失った状態でその後の人生(=戦後)を生きることになったもの、それを考えてみると、自己判断力であり、言葉(厳密には文字であり、会話は可能なのだが)である。このあたり、アメリカの支配下あるいはアメリカ追従の状態にあって、自分で決断する、あるいは自分の真実を語ることができなかった日本と重なっていないだろうか。そう考えたのだ。個人の成長の物語であると同時に、国家としての日本の成長の物語ではないか、と。そう考えると、戦争や二人の兵士が小説中で使われていることにも一応の説明はつくし…。

話は変わるが、主人公のカフカ少年、これで15歳はないだろう、と感じた。いくらなんでも老成し過ぎ。少年が大人になる物語を書きたかったのだとしたら、その少年を描けていない段階でその狙いは失敗していると言わざるを得ない。

世間的評価は知らないが、個人的にはそれほどの作品とは思えない。

う~ん、村上春樹は一体何がしたいんだろう?
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by usagi-kani | 2006-03-14 05:56 | 本・ことば | Comments(2)