日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

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そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑と一緒に、心に中へ入ってきた。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。

老婆には刃が突きつけられている。その刃の持ち主が自分に対して憎悪と侮蔑を抱いたらしい……それを感じ取った老婆が「このままでは殺される」という恐怖を覚えたであろうことは想像に難くない。つまり、この後語られる「老婆の論理」…「悪いことをした者には悪いことをしても許される」「自分が生きるために仕方なくする悪は許される」…は、殺されたくないがために苦し紛れに口にした論理に過ぎない。その理論に基づいて女の髪の毛を抜くことを決めたわけではない。
しかし、そんな苦し紛れの理論でありながら、特に破綻したものではないし、素直に我々読者の胸に入ってくる。それは、老婆が明確に言語化することはなくても日頃から感じていたことだからであり、我々にとってもそうであるからだ。はっきり意識することはなくとも、そういうものだ(あるいは、そういう考えもあるだろう)、と思って我々は生きているのだ。
では、なぜ我々は「老婆の論理」を「そういうものだ」と思っているのか。生まれつき備わっている本能的な考え方なのか。教育によってすり込まれたのか。生きているうちに自然に身につけたのか。それとも……。
今年度の授業ではそんなことを考えさせてみた。

(感想は書いた生徒自身に著作権があると思われるので隠しました。)
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by usagi-kani | 2013-07-03 21:53 | 学校・教育 | Comments(0)
芥川龍之介「羅生門」の授業をやっていて驚いたことがある。

「『下人』に『大きな面皰(にきび)』があることから、どのようなことがわかるか」という発問。

以前は(少なくとも前回この教材を扱った3年前までは)「下人が若者だということがわかる」という、こちらが期待した答えがすぐに返ってきたものだった。

今回も当然そうなるものと思っていたのだが……。

返ってきた答えは「下人の栄養状態が悪いということ」「下人が顔を洗うこともできないほど追い詰められていること」というものだった。それも一部の生徒ではなく、複数のクラス(というより私が担当しているすべてのクラス)で、こんな答えが返ってきたのである。

初めて聞いたときは、「どうしてそんな答えが…」と驚いたが、すぐに納得した。

現代の高校生にとって「ニキビは体調が悪かったり、洗顔を怠ると出来るもの」という認識なのだ。「ニキビは青春のシンボル」なんてCMがあったが、「ニキビ」=「若さ」なんてイメージはもはや過去のものになってしまったようだ。

ま、授業では「全体で何を言おうとしているかを考えて部分を読め」と言っているので、「ここは下人の困窮した状況を述べている場面だから、下人が顔も洗えないほど追い詰められていることを表しているはず」と考えてくれたのなら、授業で教えたことがちゃんと伝わっていると喜んでいいのかも知れないが。

なんにしても、時代は変わったな、と実感した出来事だった。

そうそう、「シンボル」と言えば、「……仏像や仏具を打ち砕いて……」の「仏像や仏具」は「モラルや道徳心」の象徴である、つまりここは困窮したあまり人々のモラルが崩壊したということを表している、ということも生徒たちには難しいようだ。説明されると、なるほどという顔をして聞いているが、予習の段階ではまず出来ていない。

現代の子どもたちにとって仏具なんて生活に困ったら真っ先に処分してしまうものなのかも知れない。

反対に絶対に最後まで手放さないのがケータイやスマホなんだろうな。
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by usagi-kani | 2013-05-18 19:18 | 学校・教育 | Comments(0)
国語総合の現代文。
新1年生の最初の教材は、小川洋子さんの随想「人と人が出会う手順」。
高校に入学して、新しい友達と出会って……まさにこの時期に扱う教材としてふさわしいものだと思う。

抜け殻、というささやかな言葉に導かれ、こうして出会った不思議をしみじみと味わった。


筆者は、「誰かと知り合う」こと、を「出会い」とは考えていない。ガイドさんと知り合うのに「抜け殻」は関係していないからだ。ガイドさんと「抜け殻の話で一緒に笑った」からこそ、「抜け殻に導かれた」と言えるのである。つまり、筆者の考える「出会い」とは、単に「知り合う」ことでなく、相手との関係性を構築することなのである。わかりやすく言ってしまえば「相手と親しくなること」が「出会い」なのだ。だからこそ、最後の灯台守研究会についての想像も「…誰かと誰かが出会い」で終わらずに「灯台守の文献を調べたり、各地の灯台を訪ね歩いたりして、絆を深めている様子」にまで及ぶのである。

たまたま同じ学校に入学し、同じクラスに振り分けられた生徒たち。
彼らはまだ真に「出会って」はいない。これから授業や学校行事といった経験を共有することで「出会って」いくのだ。いわば「偶然」の出会いを「必然」に変えていくのである。
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by usagi-kani | 2013-05-17 23:04 | 学校・教育 | Comments(4)
ストーリーが都合良く展開しすぎな感はあるが、それでいいのだろう。所詮は小説。楽しく読めるのが一番。リアルであることがすべてではない。

そう、小説はこれでいいのだ。これこそが「小説らしい小説」。
最近「哲学っぽい小説」を求めすぎていたのかも知れない。

「俺はな、仕事っていうのは、二階建ての家みたいなもんだと思う。一階部分は、飯を食うためだ。必要な金を稼ぎ、生活していくために働く。だけど、それだけじゃあ窮屈だ。だから、仕事には夢がなきゃならないと思う。それが二階部分だ。夢だけ追っかけても飯は食っていけないし、飯だけ食えても夢がなきゃつまらない。」

テーマになっているのは「仕事の魅力」「働くことの意味」なのだろう。

仕事に夢を持ちたい、あるいは夢を忘れないようにしたい……そう思った。いや、正確に言うなら、そう思いたいと思った。
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by usagi-kani | 2012-05-21 21:34 | 本・ことば | Comments(0)
かつて、風待ちさんという敬愛するブロガーがいた。
ブログを閉鎖してしまったので、今どうしているかはまったくわからない。
どこかで書いているなら是非読んでみたいが、それを知るすべもない。
それに恐らくもう書いてはいまいという気がする。

その風待ちさんの記事(かコメント)に岡嶋二人著「クラインの壺」が紹介されていたことがあった。
先日図書館に行って、何を借りるか迷っていたとき、ふとそのことを思いだし、借りてきた。

おもしろかった。特に後半は途中で止めることが出来なくなり、2時間くらい一気に読んでしまった。文章がわかりやすい(読みやすい)ので、結構な厚さの本だが、3時間半ほどで読めたと思う。

クラインの壺とは、メビウスの輪の3次元版と考えればいいようだ。作品中では、ホースが例に挙げられている。メビウスの輪が、表がいつの間にか裏になっているように(表と裏が連続しているように)、クラインの壺は、ホースの外側がいつのまにか内側になっている(外側と内側が連続している)。
作品では、壺の外側が現実世界、内側がバーチャルな世界ということになっている。そして、あまりに内側がリアルなため、現実と仮想現実の区別がつかなくなってしまう、という話だ。
確かに、バーチャルリアリティを追求していけば、現実と区別がつかない、どちらが現実でどちらが仮想現実かわからない、という状態に行き着くだろう。
そんな世界を描いているのだが、「怖い」と思った。そこまでのリアリティは必要ないだろうと。でも、科学者はそこまで追求したいと思ってしまうのだろうな。

現実と仮想現実の区別がつかなくなる……これって決してSFの世界や精神疾患の世界でなく、たとえば我われブロガーにも起こりえることだと思う。

こうして記事を書く。だが、それが100%真実なわけではない。話をおもしろくするために「盛って」しまうこともあるだろう。プライバシーの問題等で書けないことがあり、そこを穴埋めするために話を作らざるを得ないといったこともある。炎上を怖れて本音ではなく綺麗事や一般論を自分の意見として書いてしまうこともあり得る。
日記ならともかく、人の目に触れる文章はそんな「嘘」が必ずある。
でも、書いたことで、その嘘が自分にとっての真実になってしまう。書いたことに縛られてしまうのだ。

風待ちさんが消えたのも、あるいはクラインの壺に入ってしまったから(現実の自分とブログの自分の区別がつかなくなったから)ではないか、という気がする。そんな危ういところに身を置いていたからこそ、あんなに魅力的な文章が書けたのではないか。

完全な創作ならそんな心配はない。でも、ブログは半分日記であるだけに、書いた文章に自分が縛られる可能性が多分にある。
心しなければいけないな。

(風待ちさんのブログ閉鎖理由は私の全くの推測です。ご本人の目にとまり不快な思いをされたら謝ります。)
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by usagi-kani | 2012-02-05 07:21 | 本・ことば | Comments(0)

『きことわ』を読んで

少し前に芥川賞を受賞した、朝吹真理子『きことわ』を読んだ。

ここ数年芥川賞にはろくな作品がない。自分では買わずに借りて読んでいるので「金返せ!」とは言えないが、「(読むのに費やした)時間を返せ!」と言いたい作品ばかりだ。『きことわ』と同回に芥川賞に選ばれた西村健太『苦役列車』は半年ほど前に読んでいたが、こんな本を出版するなんて紙の無駄、とまで思ったものだった。
だからこの作品も「芥川賞作品だから一応読んでおくか」くらいの気持ちで手にした。

読んでの感想は……まずは、文章が上手いと思った。真綿にくるまれている感じ、とでも言おうか、とがったところ・ひっかかるところがなく、素直に読める。何でもないようだが、こういう文章はなかなか書けない。
だが、小説としてはつまらなかったとしか言えない。特別な事件が起こるわけでもないので話としても盛り上がりがないし、読後にも何も残らない。
ストーリーを楽しむのではなく、文章を味わう小説、とでもいう評価になるだろうか。

この作品自体はたいした作品ではない。が、これだけの文章が書けるのだから、「いいネタ」があれば素晴らしい作品を書き上げる可能性があるとは思う。
その将来性に芥川賞が贈られたのかも知れない。
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by usagi-kani | 2011-10-02 06:04 | 本・ことば | Comments(0)