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by usagi-kani

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静かな映画である。
過疎と言ってよい山里を舞台としているからであるが、考えてみれば、自然とは静かなもの。都会の喧噪こそが不自然なのだ。
そして、人間はその静かさの中で生きてきた。喧噪という不自然の中で生きるようになったのはどれくらい前からなのだろう? その不自然な音たちは、自然の一部である人間の心にどんな影響を与えているのだろう。

東京で最先端医療に関わる有能な医師・美智子は、あるときパニック障害という心の病にかかる。それをきっかけに、夫婦は、夫の孝夫の故郷である信州に移り住む。美智子は自然の中で次第に健康を取り戻していく……それがこの映画の軸となるストーリーである。

そういうとありふれた自然礼賛の物語にしか聞こえないが、言わば「脇役」の登場人物たちがこの映画に深みを与えている。

村には阿弥陀堂があり、そこには96歳になるおうめ婆さんが暮らしている。
また、小百合という、おうめ婆さんのところに通っている娘さんがいる。彼女は喉の腫瘍のために声が出せなくなった。彼女はおうめ婆さんから聞いた話を「阿弥陀堂だより」というコラムにまとめて、村の広報誌に連載している。

阿弥陀堂と「阿弥陀堂だより」……それは、そこに住むおうめ婆さんとそれを書く小百合に他ならないのだが……このふたつ(ふたり)は非常に重要な役割を担っているような気がする。
阿弥陀堂は、死者を祭る場所、すなわち「生と死の交錯する場所」「生者と死者が交感する場所」と言える。そうすると、おうめ婆さんは生の世界と死の世界の境界に生きる人、または両方の世界に生きる人ということになる。(実際、「自分がこの世のものかあの世のものかわからなくなる」というセリフがあった。)
そして、小百合であるが。彼女が声を失ったのは偶然ではない。そのことによって、彼女は、おうめ婆さんの言葉を「阿弥陀堂だより」として村人に伝える役割を担うことになる。すなわち彼女は「巫女」になったのである。「人間以外のものの言葉」を伝えるためには声を失うことが必要だったのである。

さて、おうめ婆さんが語り、小百合が広めた「人間以外のものの言葉」(思想)とは何か。
前述のおうめ婆さんのセリフ「この世のものかあの世のものかわからなくなる」がそれだろう。「生と死は明確に区別できるものではない、別物ではない」ということだ。

先ほど、阿弥陀堂は「生と死の交錯する場所」「生者と死者が交感する場所」だと述べた。
だが、考えてみれば、阿弥陀堂を村を囲む「自然」こそが「生と死の交錯する場所」「生者と死者が交感する場所」なのだ。いや逆に、生と死があってこその「自然」なのだ、と言ったほうが適切か。

自然の生と死は四季の移り変わり。繰り返されるものだ。そこでは人間の生死も繰り返される。祖先が死に、自分が生まれ、子供が生まれ、自分が死に、子供が死に……。繰り返される生死の中では、ある意味自分がどの生を生きているのかわからなくなる(永遠に続く生死の連鎖の中では、自分がどこに位置しているかわからなくなる)。おうめ婆さん流に言えば、「この世のものかあの世のものかわからなくなる」のだ。自然においては、生が「無」でないように、死も「無」ではないのだ。

それに対して、繰り返す自然を捨て去った都会は、「生と死の交錯する場所」「生者と死者が交感する場所」を喪失した場所である。都会の死は、誰にも何にもつながらない。都会の死は「無」でしかない。死が無であることは生が無であることに他ならない(死の瞬間に生が無になる、と言ったほうが正確か)。
だから、東京で医師として死を見続けた美智子は「生きるエネルギー」を失ったのである。

村には孝夫の恩師がおり、彼はガンに冒されているが、治療を拒み、潔く死を受け入れようとしている。死で自分が無になるのでなく、繋がるからこそ、つまり、死んでも生き続けることができる(と感じている)からこそ、そのようなことが可能なのだろう。

やがて、恩師は亡くなる。

最後、美智子のお腹に新しい生命が息づくが、これは予想されたことだ。恩師の生命が美智子のお腹によみがえったのである。繰り返される自然の営みのように……。

いい映画だった。原作(南木佳士『阿弥陀堂だより』)も読んでみたい。原作と比べることで、映画制作者側の意図もはっきりするだろうから。
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by usagi-kani | 2006-09-02 06:17 | 映画・TV | Comments(4)