日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

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蛇行する知恵

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俵万智「トリアングル」を読んだ。

主人公の独身女性が、若い独身男性と年上の妻子ある男性との二つの恋愛を経験し、結局妻子ある男性の子供を産むことを決心する、という話である。
実際作者の俵万智自身がシングルマザーとなっており、どの程度「私小説」であるのかという興味を抱いたが、正直言ってそうたいした小説とは思えなかった。暇つぶしに読むなら悪くはないのだが、出会いに感謝したくなるほどの小説ではない。

だが、次の箇所は非常に印象に残った。この部分との出会いは感謝したいと思う。

 釧路川は、蛇行する川の代表選手。その姿を初めて写真で見たのは、たしか小学校の地理の教科書でだった。水でできた蛇が、巨大なS字をつなげたかっこうで、湿原を這っている。
「この蛇行に意味があるんです。一見、無駄な寄り道をしているようですが、とんでもない。蛇行のおかげで、湿原の隅々にまで、水が配られているんですから」
 湿原を研究して三十年という湿原博士は、力をこめて言う。
「人間がやってきたことは、A地点からB地点への最短距離を、直線で結ぶようなことばかりですな。自然は、蛇行するという知恵を持っています」

確かに人間がやってきたこと・目指したことは「最短距離を、直線で結ぶ」ことばかりだ。
目的達成のために、無駄(と思える)ことを排除し、合目的的であることを良しとしてきた。

その結果はどうなったか。

蛇行という「無駄」を排除して最短距離を求める社会は忙しくなるばかり。
忙しさは「心を亡くす」。他人を思いやる余裕はなくなり、他人の痛みに鈍感になる。
まだ社会に「蛇行」があった頃、人と人の間に存在していた「水」、人々の心の中にあった「水」は消えようとしている。
潤いのない社会が住みやすい場所であるはずがない。

それでも最短距離で進もうとしている目的地が「幸せな社会」であると信じられるならまだいいのかも知れない。
だが、目的地が「金儲け」であったことはもはや誰の目にも明らかだ。
金儲けと幸せは違う。
儲けた金をいくら使っても失われた「水」を買うことはできまい。

「心の水」はもう戻らない。
それと引き換えに「直線の社会」は一体何を生み出したのだろうか。
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by usagi-kani | 2007-08-04 05:38 | 本・ことば | Comments(2)

綿毛

俵万智『プーさんの鼻』で気に入った短歌。

生きるとは手をのばすこと幼子の指がプーさんの鼻をつかめり

親子という言葉見るとき子ではなく親の側なる自分に気づく

たんぽぽの綿毛を吹いて見せてやるいつかおまえも飛んでゆくから

特に「たんぽぽの…」が好きだ。
そもそも新聞の書評でこの短歌が紹介されているのを見て、「いいな」と思い、読んでみたくなったのだった。
紹介されているのが他の短歌だったら、読もうという気にならなかったかもしれない。
そう考えると、これもひとつの「縁」。出会った短歌すべてとはいかなくても、心に残ったものくらいはずっと忘れずにいたい。

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たんぽぽの種がどこに落ちるのか……それは「運命」という風しか知らない。
人間の場合も同じ。
親にできるのは祈ることだけだ。どうか、その場所でたくましく生きていって欲しい、と。
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by usagi-kani | 2007-06-30 08:15 | 写真・文章 | Comments(2)

自作教材(自分流解釈)

授業で使用した自作の教材を紹介していきたい。
ご同業の方のご意見などを伺えれば幸いである。

今回のは短歌の授業の終わりに実施するもの。
15年くらい前に作成したものだが、引用する生徒作品を替えるくらいで、基本的にそのまま使っている。

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「自分流解釈」にチャレンジ!

 これから授業で短歌を学ぶわけですが、初めに少し考えてみましょう。
 短歌(別に短歌に限ったことではないのですが)を味わう、とはどういうことでしょう? 
 歌の意味がわかればいいのでしょうか? それは「理解」かもしれませんが「味わう」とは違うのではないでしょうか。
 食べ物だって、「味わう」ためには口の中に入れなければなりません。「喉ごし」まで感じるためには飲み込まねばなりません。つまり「味わう」ためには自分の中に入れることが必要なのです。だから、短歌の場合も「その短歌を自分の中に入れてしまう」ことをしてみましょう。それを「自分流解釈」と呼ぶことにします。
 「解釈」とは、辞書によれば「物事やことばの意味をわかりやすく説明すること」です。だから、短歌の場合なら「その短歌の意味をわかりやすく説明すること」になるのですが、意味のわかりにくい短歌ならともかく、誰が読んでもわかることをわざわざ人と同じように「解釈」するのではつまりません。そこで、その短歌を読んで感じたこと、あるいはその短歌に触発されて心に浮かんだ風景やストーリーを自由に書いてみましょう。それが「自分流解釈」です。「自己流…」としないのは、あくまでもとの短歌にそって創造したものであって、勝手気ままに作ったものではないからです。「自己流」ということばには悪い印象があって後者のように取られかねませんから。
 自分の経験と想像によって満足いく「自分流解釈」ができたとき、その短歌を十分に味わい、自分の内に吸収したことになるのです。

 では、具体的にある短歌を例に「自分流解釈」を試みてみましょう。

吾をさらいエンジンかけた八月の朝をあなたは覚えているか        俵 万智

 わかりやすい口語の短歌ですから、歌の意味は一読して理解できますが、あえて「一般的解釈」をしてみると
「私をバイクのタンデムに乗せ、エンジンをかけて私を連れ去った八月の朝。あの朝をあなたは覚えているかしら」
ということになります。そのまんまでつまらないですね。

 さて、「自分流解釈」ならどうか。

「同じような毎日の繰り返しに、夏の太陽の明るさとは反対のやるせない憂鬱を感じていたあの八月。ある朝家を出ると、白いTシャツにGパン姿のあなたがいた。どうして、と問いかける間もなくヘルメットを手渡すあなた。そのまま一言も話さず、行き先さえ知らずに二人はバイクで走った。エンジンの振動がまるで私の鼓動のようだった。あのとき私がしがみついたのは、あなたの背中ではなく、未来だったのかもしれない。ねえ、あなたは二人の未来を決めたあの朝を覚えてる?」

 ちょっと遊びが過ぎたかもしれませんが、「自分流解釈」の「感じ」くらいはわかってもらえたと思います。

 もう少し例を、今度は生徒作品を挙げてみましょう。

いるはずのない君の香にふりむいておりぬふるさと夏の縁日        俵 万智
「金魚すくいや輪投げ、お面……縁日に一人で来るのって、なんて悲しいんだろう。あなたが仕事が忙しいって最近会ってくれないから、私田舎に帰って来ちゃったよ。もうこんな苦しい気持ち、長引かせたくない。だから、ある決心をして。なのに、あなたが好きな紺色の浴衣を着ている私がいる。どうして、と問うまでもない。本当はわかっている。わかっているけど……。
 綿アメを買って帰ろう、そう思って歩き始めたとき、ふわっと後ろからたばこのにおい。あなたに染みついているマルボロの、におい。胸がきゅっと苦しくなった。もう認めるしかないなぁ。あなたに会いたいってこと。少し、悔しい。振り向いた時から、私の負け。」(高1 女子)

さよならに向かって朝がくることの涙の味でオムレツを焼く          俵 万智
「最近私はついてないんです。愛鳥のピーコはどっか行っちゃいました。自転車なくなりました。仕事はクビになりました。そして……恋人もなくしちゃいそうなんです。私に愛想つかしちゃってるんです。今は自分が悪いってわかってるんです。自分でも、自分が嫌いです。だから、私は今日で変わると決心します。恋人ともけじめをつけます。あの人が好きだったオムレツを作りながら……あの人とも今までの自分ともさよならします。あれ、涙が出て来ちゃうよ。」(高1 女子)

 同じ詩や短歌を読んでも、感じ方は人それぞれ違います。「自分流解釈」はいわば「個性的な創造の営み」(!)であると同時に、自分という人間の感性を発見する試みでもあります。面倒だ、なんて言わずにトライしてみましょう。
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by usagi-kani | 2006-10-14 04:42 | 学校・教育 | Comments(4)
プリン(プディングという呼び方も浸透してきたが、やはり日本人にはこのほうがしっくりくる)の魅力はどこにあるのだろう。
味覚ではないと思う。多分に好みの問題であろうが、今の時代プリン以上に美味なお菓子は多いはず。

時代を経ても変わらぬプリンの魅力、それは触感にあるのではないか。
つまり、スプーンで掬い取った後の、プルルン、って震え。その震えを生み出すかたさ(やわらかさ?)こそが魅力ではないか、と思うのだ。
もちろん我々はプリンのかたさ(やわらかさ?)を手でも味わい、舌でも味わっている。だが、プリンのかたさ(やわらかさ?)を最も的確に表すのがこの「プルルン」だと思うので、視覚的なこの表現を使いたい。

その「プルルン」はプリンが「絶妙なかたさ」ゆえに持ち得るもの。
固すぎても軟らかすぎてもダメ。
まさに「絶妙」としか言い表せない状態にあって初めて成立する震えなのだと思う。

同じことが人間についても言えるのではないかと思う。

すなわち、心の震え、である。

心が震える、そのためにはやはり心が「絶妙なかたさ」になければならないのではないか。
乾燥しきって固い心はもちろん、やわらかすぎて形のない心も震えることはできないのではないか。

感動とは「心のプルルン」。
だとするならば、感動するためには「心の適度な柔軟さ」が必要。

そんなことを思う。

さらに言うと。
この「心のプルルン」が同調したとき、人は自分がひとりでないこと、すなわち「他者とのつながり」を実感することができるのではないか。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)

例えば、この短歌。
答えてくれる人がいるからあたたかいのではない、と私は思う。

もし返事が「冬だから当たり前だろう」とか「でももうすぐ暖かくなるよ」だったら……作者はあたたかさを感じないであろう。そのような返事では、傍らに人間が存在しているという意味では孤独でなくとも、心理的には孤独なのである。

「寒いね」に対してそのまま「寒いね」という返事……
作者はそこに同じ心の震え(プルルンの同調)を感じたから、自分はひとりじゃないと実感することができたのである。
だから「あたたかさ」を感じたのである。

最近あなたにはあっただろうか、
心のプルルンが同調した……そう感じた人が、瞬間が。
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by usagi-kani | 2006-03-24 05:49 | 日記 | Comments(0)
確か俵万智だったと思う。
ある日子供に
「おかあさん、せなかでだっこして」
と言われて、何のことだろうと思ったが、
すぐにおんぶのことだと気付いた、
という話を読んだ。

ボキャブラリーがない故の表現なのだろうが、
子供の言葉は時に詩である。

暖かさが感じられて素晴らしい表現だと思った。

「せなかでだっこ」

おんぶ、より断然いい。
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by usagi-kani | 2006-02-14 05:39 | Comments(0)