日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

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ケータイで買い物

3月末に携帯電話を替えた。
その際の選択基準のひとつは「おさいふケータイ」であること。
ケータイで買い物をする、というのを是非ともやってみたかったのだ。

最大の問題は家の周りに電子マネーが使える店がないこと。
ネットで調べてみたら30km圏内に数店あるにはあった。
だが、いずれも支払いのみでチャージは出来ない。つまり使用出来ない(涙)。

使えないとなれば、なおさら使いたくなるのが人間の性。
そんなときセブンイレブンでnanacoがスタート。店頭でチャージもできるし、利用するとポイントも付くからお得。しかも、セブンイレブンは私が最も利用するコンビニだ。
ようやく使うことが出来るか、と期待した。

だが、nanacoはSoftbankの携帯電話には未対応。
どこまで縁がないんだ、と苦笑するしかなかった。

しかし、ようやく「拾う神」が現われた。
7月10日からファミリーマートでEdyが使用可能になる。しかも、チャージも可能。
そのニュースを聞き知った私は、携帯電話のEdyの初期設定を済ませて当日を待った。

そして、当日。
仕事の帰りにファミマに寄り、2000円をチャージ。飲み物代をEdyで支払った。
「Edyでお願いします」というのが照れくさかった。
ちなみに、その店でEdyを利用したのは私が第1号とのこと。夕方なのに…。さすが田舎だ。

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その後も何度かケータイで支払っているが。
財布から小銭を出し、おつりを受け取ってそれをしまって……という作業が必要ないのは便利といえば便利。それは認める。
だが、別のことに面倒を感じている。いちいち「Edyで」と言わなくてはならないことだ。現金払いなら無言でお金を渡せば済むのに……。

たったひと言を言うのを面倒に感じる……。
買い物は私にとって「無言の作業」になっていたのだ。
子供の頃の、駄菓子屋でお金とともに言葉もやりとりしていた、そんな買い物はいつの間にか遠いものになっていた。
そんなことを思い知らされた。

そんな感慨とは無関係に、おそらくEdyは間もなく使わなくなるだろう。
物珍しいから使ってみたかっただけ。必要性を感じていたわけでも何でもないから。

だが、nanacoが自分のSoftBank携帯でも使えるようになれば、大いに使うだろう。
サービスポイントは欲しいから(笑)。
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by usagi-kani | 2007-07-21 15:57 | 日記 | Comments(0)

アンケート回答

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現在大学2年生になっている卒業生から手紙が来た。
実際に学校で教育をしている人にインタビューをして、それをもとにレポートを提出する課題が出された、帰省している余裕がないので、同封のアンケートに答えて送ってくれないか、という依頼であった。
その回答をここに残しておこうと思う。自己の記録として。
質問数自体少ないし、時間的な問題もあってそう丁寧に答えたとも言えないが、果たして彼女の役に立ったであろうか。「助かりました」というお礼のメールは来たが……。

          * * *

Q:これまでの指導経験は?
A:21年目(担任を持つことが多く、うち17年は担任をしている)

Q:教師になった理由は?
A:未来に関わる仕事だから。未来があるから社会(世界)は成立する。未来がなくなれば、人間は絶望するか自暴自棄になるか……いずれにしても社会は成り立たないであろう。人間にとって最も大切なものは未来。そして、未来とは子供たちである。そんなことから、子供(の教育)に関わる仕事に就きたいと考えた。
 また、自分の関心が人間や芸術にあり、政治経済には全くないので、一般企業には向かないかな、と考えたことも理由である。

Q:教師になって苦労していることは?
A:(苦労というより悩みだが)やらなくてはいけないことが多くなりすぎて、本来一番大切なはずの生徒と接する時間を削らざるを得なくなってしまっていること。忙しいときに生徒から相談を持ちかけられると「迷惑」と思ってしまうことさえある。とにかく多忙である。

Q:教師のやりがいは?
A:(実際にどの程度関与しているのかは不明だが)子供たちの成長に関われること。特に3年間受け持った場合は、「入学したときはあんなに子供っぽかったのに、大人になったな」と実感される。

Q:指導する上で心がけていることは?
A:教科指導では、考えさせること。それ以外では、「選ばせる」こと。ルールだから守る、ではなくて、ルールを守らないで罰を受けることも選択肢として与える。盲目的にルールを遵守するのではなく、考えて決めること、自己が責任を負うことを教えたい。

Q:昔の生徒と今の生徒に違いはあると感じるか。感じたとしたらどのような点か?
A:以前「(家庭が)過保護になって子供が何もできなくなった」と言われた時代があったが、現在は学校自体が過保護になっている。家庭も学校も過保護なので、(親や先生が何でもしてくれるから)自分では何もできない生徒が増えている。指示待ち人間で当たり前、指示されたことができればよし、と考えなければいけなくなった。
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by usagi-kani | 2007-07-19 05:40 | 学校・教育 | Comments(1)
東野圭吾『手紙』を読んだ。

兄が強盗殺人を犯したがゆえに不当な扱いを受け続ける直貴に、勤務先の社長が語る言葉……それがこの小説のすべてだろう。

「差別はね、当然なんだよ」平野社長は静かにいった。
 直貴は目を見張った。差別はしていないという意味のことをいわれると思ったからだ。
「当然……ですか」
「当然だよ」社長はいった。「大抵の人間は、犯罪からは遠いところに身を置いておきたいものだ。犯罪者、特に強盗殺人などという凶悪犯罪を犯した人間とは、間接的にせよ関わり合いにはなりたくないものだ。ちょっとした関係から、おかしなことに巻き込まれないともかぎらないからね。犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ。自己防衛本能とでもいえばいいかな」


犯罪者やある種の病気に対する差別……それはおそらく極めて「人間的」なことなのだと思う。
犯罪者や(感染性の)病人に対して、危害を加えられるかも知れない、病気が感染するかも知れない……そんな恐怖心を持ってしまうのは、人間として全く自然なことだと思うからだ。
それはまさに自己防衛本能。人類が生き残るために心の奥深くに植え付けられたプログラムなのであろうし、そのような心理があるからこそ人類は存続し得たのだろう。

もちろん道徳的には「差別」は間違いだ。否定されるべきものだ。

だが、それが(本能として人間に備わっているものという意味で)「人間的」なものだとすれば、「人間らしいあり方」とはいかなるものなのだろうか。

差別を肯定するつもりはない。
だが、それでもふと疑問に思ってしまうことがある。
本能を捨て去ってしまうこと。「道徳」というプログラムに忠実な生き物になること。いわば「ロボット」になること。
それが「人間らしいあり方」なのだろうか、と。
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by usagi-kani | 2007-07-18 04:50 | 本・ことば | Comments(2)