日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

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君の話を聞いて今思っていることを、正直に言わせてもらっていいかな?
何の解決の手助けにもならないかもしれない。でも、とりあえず話してみるよ。

夏目漱石に『夢十夜』って作品がある。
読んだことがあるかもしれないけど、その「第一夜」はこんな話なんだ。

……枕元に座っている「自分」に、仰向けに寝た女が、もう死にます、と言う。さらに「百年、私の墓のそばに座って待っていてください。きっと逢いに来ますから」と。
そして女は死ぬ。「自分」は女を土に埋める。
「自分」は墓の横に座り、太陽が昇り沈むのを数える。来る日も来る日も。
「自分」が女に欺されたのではないかと思い始めたとき、墓から青い茎が伸びてきて、見る間に真っ白な百合の花が開く。
「自分」はその花弁に接吻し、初めて気づく、「百年はもう来ていたんだな」と。……

まあ、そんな話だ。わかってもらえたかな。
普通に読むと、百年後「女」が百合の花になって逢いにきた、というロマンティックな話だよね。

でも、僕はさ、ちょっと違った解釈をしてるんだ。
いや、ロマンティックな話って読み方が間違ってるわけじゃないよ。それが普通の読み方だと思う。
だから、僕のは、ちょっと変わった解釈ってことで、そういう読み方もできるのか、くらいに聞いてくれればいい。

百合の花は「女」の生まれ変わりでも何でもない。何の関係もない花が、たまたま墓から生えてきただけ。
つまり、全くの「偶然」ってこと。
その「偶然」に対して、「自分」が勝手に「百合の花はあの女だ」とか「百年が過ぎた」とか思い込んでるに過ぎない……。
そんな読み方も可能だと思うんだよ。

そして、人間って、あるいは人生って、そんなものだと思うんだ。
ただの「偶然」に「意味づけ」をしているのが、人間であり、人生である、と。

そんな例って至る所にあるだろ?

例えば、障がいのある子どもが生まれてきたとする。
何パーセントかの確率でそういう子は必ず生まれてきてしまう。だから、誰のところに生まれたかなんて本当に偶然のことに過ぎない。
だけど、人間って「この子が私のところに生まれたのは何かを教えてくれるためだ」とかって「意味づけ」をしようとする。「必然」と思い込もうとするって言ってもいいかな。

つらいことがあると、自分が成長するために神様が与えた試練だと考えたりとか……いくらでもあるよね、そういう例って。

そういうことをしながら生きてるのが人間だと思うんだ。あるいは、生きるとはそうすることだって言ってもいいかもしれない。

たぶん、世の中の出来事ってほとんどが偶然だと思うんだ、実際のところは。
ひとつひとつがバラバラで結びつきなんてない……そういうものだと思うよ。

なのに人間は「意味づけ」をする。
愚かと言えば、愚かなことかもしれないね。ないものをあると思い込んで、場合によっては苦しまなくてもいいことで苦しんだりするのだからね。
でも、この「意味づけ」こそが、僕は、人間の本質なんじゃないかと思うわけ。人間だからこそできることだし、人間ならやらずにいられないことだからね。

たぶん、この「意味づけ」って世界と自分を結びつける作業なんだろうな。全部がバラバラ、結びつきなんてないってことになったら、孤独で孤独でどうしようもないだろうからね。バラバラの世界を結びつけて、その関係性の中に自分を置くことで、初めて人間は人間として生きられるのかもしれない。

そんなことを思うんだ。

君は、彼が死んだのは自分にも一因があるんじゃないか、と悩んでるわけだけど……。
彼の死が君と関係があるのかどうかはわからないんだよね。

つまり、君には選択肢がふたつあるということだ。

ひとつは、君とは関係がないと考える方法。これだと、君は自分を責めなくて済む。けれど、世界と君とのつながりの一部を切断することになる。気楽だけど、寂しさを感じることにもなるだろうね。

もうひとつは、彼の死は君にも関係があると考える方法。今の君だね。自分を責めて苦しむことになる。だけど、世界と結びつくことにはなる。きっと、その結びつきの分、君の人生は豊かになると思うよ。苦しみだって、何もないよりはマシだろうから。

どちらがいいのかは、僕にもわからない。

でも言えるのは、君が後者を選んで苦しんだとしても、それは全く人間的な苦しみだということさ。
ないものをあると思い込んで、自分を苦しめる……愚かだけど、それこそが人間だからね。

やっぱり何の解決にもならない話だったね。
でも、僕にはこんなことしか言えないんだ。
いやいや、お礼なんていいよ。こっちこそ力になれなくてごめんね。

ところで、コーヒーのお代わり頼まないか?
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by usagi-kani | 2006-11-30 05:34 | 写真・文章 | Comments(6)
私には一人分の力しかありませんが、一人分の力にはなれます。
私には全てのことは出来ませんが、何かをすることは出来ます。
全てのことが出来ないからといって、何かをすることまで止めてはいけません。

(エドワード・エベレット・へール)


自分の力の微少さに悲しくなるときがある。
でも、そんな自分でもできることは必ずある。
それをやり遂げることが大事なのだ。

それはあまりにもちっぽけだったり、時には見当違いだったりして、自己満足としか言えないものかもしれない。
でも、その自己満足が唯一の支えになるときもある。ちっぽけな支えのおかげで倒れずに立っていられる。

でも、本当に弱くなったとき、倒れそうになるのを支えてくれるのは、そんな自己満足や自信や自負ではない。(そもそも自信をなくしたから倒れそうになるわけだし。)
普段は鬱陶しくて仕方ない、自分を縛り付ける鎖、鎖、鎖…。案外そんなものが支えになったりする。

逃れたくて仕方がない鎖たち。だが、そこから逃れて立っていられるほどの強さを人間は持っているものだろうか。
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by usagi-kani | 2006-11-28 06:16 | 本・ことば | Comments(8)

本物


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おーい、そこのサラリーマン。
あんた、今俺のこと、なんだ、ただの鴨か、って目で見たろ?
そうだよ。俺はただの鴨さ。
それでもあんたにそんな目で見られる筋合いはないね。
なぜなら、俺は本物の鴨だからね。
わかるかい、本物、だよ。

あんたさ、一体どれだけ本物の動物を見たことがあるんだ。
動物園のライオン?象?キリン?
あんなのは嘘さ。偽物さ。
本物のライオンてのは、草原を駆けて、獲物を捕まえて、それを食うんだ。
それが生きるってことさ。
動物園のオリの中で、のんびり歩いて、エサもらって……。
どこにライオンの本当があるっていうのさ。

そいつらと比べたら、俺は本物さ。ちゃんと生きてるぜ。
そりゃ、人間のくれたエサを食べることもあるけど、それは人間がくれたからじゃない。エサがそこにあるから食うだけのことだ。
本物の鴨様を目にしてるんだ、もっと尊敬のまなざしってので見てもいいんじゃないの?

そう言やあ、人間ってのもオリに入ってんだろ?
学校とか会社とか。
シャカイってオリもあるそうだね。なんだい、そりゃ? ひっくり返った会社のことか。

ねえ、あんた。
その首に付けた鎖…ネクタイっての?…それを外したときくらいは本物に戻れるんだろうね。

いや、本物の人間なんて見たことがないような気がしてきたよ。
他の動物の心配しているうちに自分たちが絶滅しちゃったのか。
まあ、俺にはどうでもいいけどね。

オリに戻るまでゆっくり日向ぼっこしていきなよ。せっかくのいい天気だ。
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by usagi-kani | 2006-11-26 07:16 | 写真・文章 | Comments(10)

棚倉城趾を歩く

11月18日(土)、気温は低いが、快晴。
出張の帰り、棚倉城趾へ寄ってみた。
ここを訪れるのは初めてである。

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入り口付近にあるベンチ。
可愛いのだけれど、動物が犬と猿なのが気になる。
犬猿の仲の人は別れて座ってください、ということだろうか。
まさか、ね。

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入り口には巨大なケヤキがそびえ立っている。
樹齢は600年とか。これを見ることができただけでも来た甲斐があった。

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根本のあたり。
この異形を作り出したのは何だろう。自らの重さだろうか。我が身をゆがませながら生きていくのか……そう思うと痛ましくさえある。

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城趾内を散策する。
頭上は一面の赤。
ここまで赤いと「不自然」な感じさえする。

自然を不自然に感じたり、反対に人工物を自然に感じたり。
そんな感じ方の矛盾がある。
だが、「感じる」など、所詮は人間の小さな器の中での出来事。自然は人間の器には入り切らない。人間を基準にすれば自然は矛盾だらけにも思えるだろう。

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散歩しながら思った。もし、ここを誰かと歩くなら、誰と何を話しながら歩くだろう。
一緒に人生を歩んできた人と思い出を語るのが似合いそうだ。

さらにこんなことを思った。
誰と歩くか、何を語りながら歩くか……それぞれにふさわしい散歩道があるのではないか。

過去を語るための散歩道。
未来を語るための散歩道。
そして、親から子へ語り継ぐための散歩道。

過去を語るための散歩道は、こんなふうに自然に囲まれた場所がいい。静かに語るには、喧噪は邪魔者だから。
穏やかな木漏れ日があればなおいい。
思い出をいっぱい抱えた二人だから、当然それなりの年齢に達している。そんな二人にも歩きやすい平らな道がいい。
平ら、と言えば、そんな二人なら「思い出」も「感情」も平らになっているかもしれないな。

未来を語るための散歩道は、たとえば都会の上り坂。
若い男女が、夢を語るには可能性に満ちた都会がいい。
そして、困難の先にある未来を信じるためには上り坂がいい。

親子で歩くのは、子どもが生きていく場所が最もふさわしい。
「あれなあに?」と子どもが質問する。
親は答える。これから子どもが生きていく世界の仕組みと、そこで生きていくための知恵について。
場所が変われば、仕組みも知恵も変わる。
だから、子どもが生きていく場所が最適だと思うのだが、実際は家の周辺ということになるだろう。
でも、そこで親の「世界を見る視線」を学べば、それでいいのかもしれない。それこそが親が子に伝えたいものだろうから。

そんなことを考えながら秋の穏やかな陽射しの中を歩いた。

何にしてもここを最も紅葉の美しい時期に訪れることができたのは僥倖であった。
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by usagi-kani | 2006-11-22 05:56 | 写真・文章 | Comments(11)

私を待っている

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ふと気づいてみると、職場の私の机は「窓際」だった。
と言っても、クビの心配は当面ない(と思いたい)。

私の席からは中庭と向かいの校舎が見える。
普段はゆっくり眺める余裕はない。
だが、何気なく外に視線をやるとこんな景色が待っていた。
そう、待っていた、のだ。
この景色は私の目の位置からしか見えない。私の席以外のどこからも全く同じには見えない。
だから、私に見られるのを待っていた、と考えても間違いではないだろう。

「私」が一人しかいない以上、私と全く同じ風景を見られる人は誰もいない。たとえ同じ風景を誰かと並んで見ていても、目の位置が数十センチ違うのだから、全く同じには見えていない。

世界中の風景が自分に見られるのを待っているのだ!……そう考えれば職場へ向かうのも少しは楽しくなるかな。

今日は月曜日。おまけに雨だ。
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by usagi-kani | 2006-11-20 05:45 | 写真・文章 | Comments(4)

朝食も学校で?

少しばかり驚いた。

木曜日の朝自習は、新聞記事を読ませて、その感想を書くという課題内容である。
先週の課題になったのは、「朝食も学校給食で提供する」ことについて賛成の立場と反対の立場から述べた新聞記事である。

朝食も給食で、だって? 随分馬鹿なことを考える人がいるんだなぁ……というのが私の感想であった。
多くの生徒も同感だろうと思っていた。

ところが、提出された感想を読むと、圧倒的に賛成派が多いのである!

それで、全く予想外の結果に驚くことになったのだ。

自分の感覚がおかしいのか、生徒たちの感覚がおかしいのか。
その判断材料としてネットで関係する記述を探してみた。

そうしたら……やはり賛成派が多いのである。7対3くらいだろうか。

社会の感覚からずれているのは自分のほうであった。
少々のショックもあったが、やはり驚きが大きい。
日本が、「朝食を学校給食にする」ことに賛同する人が多数を占める国に「なった」こと、あるいはそういう国「であった」のか。それに対する驚きである。

意外だったと驚いてばかりでも仕方がない。
とりあえず私の思うところをまとめてみる。

■朝食はそこまでして食べないといけないものなのか

朝食の重要性は私も十分認識しているつもりだ。
実際、保護者を前に「規則正しい生活の確立と、脳のエネルギーを補給して学習に集中できるようにするため、必ず朝食を食べさせて欲しい」と話をしたこともある。
だから、朝食は「食べた方がよい」のは間違いないと思っている。
だが、学校給食にしてまで「食べなければいけない」ものなのか。

朝食を抜いたからって別に死にはしない。
正直なことを言えば、その人のライフスタイルくらいに考えていい問題だと思っている。

「健康のため」というなら、現代人の生活はそんなに健康的なものばかりなのか。
朝食を抜くより不健康なことをいくつもしているのではないか。

朝食を学校給食にすることで失われることも確実にある。
その家庭の文化の継承、登校前の子どもの健康チェック、親子のコミュニケーション等々。朝食はそんな機能も果たしているのだ。
それらと引き替えにしても「食べ(させ)なければならない」ほどのものなのか。

「~したほうがよい」と「~しなければならない」の間の距離はとてつもなく遠かったはず。
それがいつの間にか「イコール」で結ばれてしまっている。
そんな気がする。

■子ども(人間)に必要なものは何なのか

カラダのことだけを考えるなら、確かに「栄養のバランスのとれた学校給食」は理想的だろう。
だが、「栄養に(多少)偏りがある(としても)母親の手料理」のほうを子どもは必要としているのではないだろうか。
たとえ虐待を受けても実の親と一緒にいることを求めてしまうように……。
そんな、理屈では割り切れないココロを抱えているのが人間である。
カラダに必要なものだけを考えてココロに必要なものを見失う……そんなことになりはしないか。
そんな危惧もある。

■学校はどこまで引き受ければいいのか

家庭の教育力が低下した、という声。それに対応して、本来家庭でやるべきことを学校は引き受けてきた。
それが必要なことであったのは認めるとしても、学校がやってくれるから、とますます家庭の教育力が低下するという悪循環に陥っていることも否定できないだろう。

朝食を食べさせない家庭があるから、あるいは、食べさせても栄養に配慮していないから、学校給食で食べさせてしまおう。
その発想を延長させていくと……。
夕食も、孤食ではかわいそうだし、社会性を養うことにもなるから学校給食にしてしまおう。
家庭だと夜更かししてしまうから、学校で寝泊まりするようにしてしまおう。
そんなことになりかねない。

行き着くところは、学校が家庭になるしかないのだろうか。

親は子どもを産んで、後は学校に預けてしまう。そして、気が向いたとき面会に行く、なんて社会になるかも。

これは笑い話ではない。現在の流れを延長すればそうなるのが自然。
これを笑い話と思う人に問いたい、「じゃあ、この流れはどこで止まるのですか?」

「学校の家庭化」はもうこのへんで止めようよ!
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by usagi-kani | 2006-11-17 06:19 | 学校・教育 | Comments(10)

秋の小学校

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11月にもなると、もう晩秋の気配が漂う。
ただ、今年は随分と暖かい。日中は、ちょっとやせ我慢すれば半袖でも街を歩けそうな日も多い。やせ我慢をする理由がないのでやらないが。

休日は、家族で昼食を食べに出かけ、夕方子供と散歩に行く、というパターンが多い。
以前も書いたが、散歩の行き先は、私がかつて卒業し、来春子供が入学する小学校だ。
散歩と言っても、最近は自転車で行くことが多い。子供は手が小さくてブレーキが上手くかけられないため、止まることに不安はあるが、それ以外は上手に乗りこなしている。

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もっと小さかった頃のお気に入りは滑り台だったが、いつ頃からか見向きもしなくなった。
今はブランコがお気に入りのようだ。
と言っても、たいして激しく揺らすわけでもない。うちの子はよく言えば慎重、悪く言えば臆病だ。

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小学校に隣接して池がある(考えてみれば危険だが)。
いつの間にか白鳥がくるようになったようだ。1羽だけだが、優雅に泳いでいた。

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校庭の隅にある日時計。
子供に尋ねられて、見方を教えてやったが、足し算引き算をしないといけないので、チンプンカンプンだっただろうな。私だってこんな面倒なものを使う気はない(笑)。
でも、男の子の好奇心をくすぐるデザインではある。

4月の入学式は、仕事を休んででも出る予定。
年度初めで、始業式や学年集会と重なる可能性もあるが、1人きりの子供だから、1回しか経験できるチャンスはない。
仕事の方は許してもらおう。
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by usagi-kani | 2006-11-13 05:48 | 日記 | Comments(8)

本にしたい

exciteでもブログ製本サービスが始まった。

本にしたいな、と考えている。もちろん、このブログを、である。

今日のブログ隆盛が永久に続くことはない。
いずれブログサービスも終わり、データは消滅してしまう日が来るであろう。

その時、このブログに書いたものが消えてしまうのは寂しい。

他者に読んでもらう価値・保存しておく価値のある記事はそう多くはない。それはわかっている。
消えることを惜しむのは記事そのものではない。
それに費やした時間だ。
何百時間かは確実に費やしている。人生の時間の数パーセント(1パーセントにも満たないだろうが)がこのブログなのだ。
それが全て消えてしまうのはやりきれない思いがする。人生というジグソーパズルの1ピースが欠けてしまうことだから。

だから、本にして残しておきたいと思う。

ブログ製本サービスを使えば、1冊3千円程度でできる。
だが、見本を見たところ、レイアウトがちょっと気に入らない。
タイトルの次の行に本文が来てしまったり、引用や強調のタグが解除されてしまったり……。

それで、自分で思い通りにワープロソフトで作成して、オンデマンド印刷製本を依頼しようかとも考えている。
ただ、それだと10冊作るとして1冊6千円程度になってしまう。多く作るほど単価は安くなるので、20冊作れば1冊4500円になるが、不要なものにお金を払うのも馬鹿らしい。手元に置くのと親しい人に配るのとで、5~6冊もあれば十分だ。

(5冊作るとして)多少出来上がりに妥協しても1万5千円で済ますか、6万円使っても納得いくものにするか、どちらにするかは今後考えていくとして……。
年内の記事を来年1,2月で修正して、3月には本にしたいな、というのが現在の計画。

他のブロガーさんは、ブログの保存をどう考えているのだろう。
ブログサービスが終了したらそれでお終いでいいと割り切っているのだろうか。
ブログが人生の1ピース、なんて考え方はしてないのかな。
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by usagi-kani | 2006-11-11 06:45 | 日記 | Comments(8)

俳句?

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水滴を愛しき唇(くち)に運びたし

丸くなれ 生きていくため 水のごと

吾(あ)に代わり泣いてくれたか 立ち上がる

「水玉がかぼちゃの馬車だ」子が笑う

**********

写真にコメントでも書こうと思ったが、いい文章が思いつかない。
そこで強引に俳句を作ってみた。
国語の教員ではあるが、俳句は授業で扱ったことさえないくらいなので、何もわからない。
思いついたことを「五七五」にしたに過ぎないのだが、思いつくということはそれが自分の心の中に存在しているということ。だから、現在の自分の記録になるだろう、ということで載せてみた。

これを機に「俳句ブログ」になるかも(笑)。
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by usagi-kani | 2006-11-10 05:54 | 写真・文章 | Comments(2)
入門書、には必ず不満を覚えてしまう。
入門者が知りたいと思う部分への説明が少なくて、入門者は関心を持たないだろうところ、簡単に言ってしまえば入門者にはどうでもいい部分に限ってかなりの分量を割いて言及してあったりするからだ。
これは、入門書の執筆者が入門者の気持ちを忘れたその道のプロフェッショナルである、ということから生じる問題で、入門者が入門書を書けない以上やむを得ないことなんだろうな、と諦めているが。

今回紹介する『4コマ哲学教室』(文:南部ヤスヒロ、マンガ:相原コージ)は、哲学の入門書という位置づけになると思うが、やはりその傾向を回避できていなかった。

具体的に言うと、ヘーゲルの弁証法にページを割きすぎている。
これは哲学の入門書全般に言えることで(と言ってもそんなに読んでいるわけではないが)、「哲学をやる人って本当にヘーゲルが好きなんだな」と半ばあきれつつ感嘆してしまう。
哲学は「いま現在を生きる人」のものでしょ? だったら、そんな古い理屈じゃなくて、新しいのを、それこそポスト構造主義やポストモダンなどを取り上げるべきだと思うんだけど。
ヘーゲルの偉大さも弁証法の普遍性もわかるんだけど、入門者は「いま現在を生きる人」なんだからさ。

それでも、この本はお薦めである。

なんと言っても、とっつきやすい。
哲学なんていうおカタいものの入門書なのだから、とっつきやすさは非常に重要なファクターだと思う。
高校の倫理の副教材として制作された小冊子が原型だというが、これなら高校生も楽しく学べたんじゃないかな。

そのとっつきやすさの理由は、相原コージ氏の4コママンガに南部ヤスヒロ氏が解説を加えるという構成にある。
相原氏のマンガがシンプルながら深い味わいがあり、それを読んだ後だから、本来やっかいな哲学の解説も頭に入りやすい。
いや、違うな。
もっと積極的に解説を読みたくなるのだ、マンガの意味を理解するために。
「マンガを読みたい」でなく「解説を読みたい」(しかも哲学の!)と思わせるのだから、たいしたものだ。

ただ、とっつきやすさを重視したせいか、「?」と思う箇所も少なくなかった。

例えば、最初のマンガ。

「一体俺は何のために生きているのか?」と悩む浩(主人公の青年)に、後ろからぬっと現われたブタ公が言う。

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このブタ公の答えに、浩は大きな衝撃を受けるのだが……。

このマンガの後の解説に、ブタ公は「事実判断」(イイとか悪いとかとは無関係に、現実をそのまま受け止める)、浩は「価値判断」(意味や価値にこだわる)をしているのだ、とある。
浩の「価値判断」はその通りとして、果たしてブタ公の「俺は食われるために生きている」は「事実判断」と言えるのだろうか?

確かに人間は「食うためにブタを飼育している」。これは事実。
でも、だからといって、ブタが「食われるために生きている」も事実と言えるのだろうか。
もしそうなら、人間がブタを食うことをやめたら、あるいは人間に食われることなくブタが(病気や事故で)死んでしまったら、ブタの存在理由はどうなるのだろう。
まあ、「存在理由」とか言うと「価値判断」になってしまうからそれは置いておくとしても、「食われる」なんて未来のことは不確実なのだから、事実とは言えないはず。だから、ブタ公の言うことを「事実判断」とするのに疑問を感じてしまったわけだ。
ひとくちに「事実」「現実」と言っても、何が「事実」「現実」なのかを決めるのは難しいと思う。

そんなこともあって、浩は「ものがわからず思い悩む存在」、ブタ公は「ある種の悟りを持った存在」として描かれているが、実はブタ公こそ「何もわかっていない存在」なんじゃないの?と思ってしまったりする。

……と書いてきて気づいた。
もしかしたら作者は、「ものがわかっている」ブタ公も実は「わかっていない」ということを読者に知らせることで、結局、全ての存在が「何もわかっていない」んだってことを言いたかったのかもしれない。
深読みしすぎかな。

なにはともあれ、自信を持って推薦できる1冊である。
絶対に哲学に興味を持てる。
現に、私自身、哲学の本を読み始めたのだから。
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by usagi-kani | 2006-11-04 06:19 | 本・ことば | Comments(4)