日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

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醍醐味

先日、日光江戸村へ行った。
そこで上演されていた「遠山の金さん」の劇中に「『醍醐味』の『醍醐』はチーズのこと」という台詞があった。
その時は、へぇ、ひとつ利口になったと思って聞いたのだが。

帰宅後、念のためネットで調べてみた。知ったかぶりをして恥をかきたくない。

「『醍醐』とは牛や羊の乳を精製した濃厚で甘みのある液汁をいう」

液汁だから、チーズとは似て非なるものなのかな? それを固形化したのがチーズということなのだろうか。よくわからない。バター、と書いてあるサイトもあったし。

そう言えば、大学の先輩に、何かの機会に「ダイミゴ」って言った人がいたなぁ。
ちょっと怖い人だったから、どう反応していいのかわからず、やり過ごしてしまったが。
ひょっとして受け狙いでわざと間違ったのか? いや、そんなわけないよな。

「物議」を「モノギ」と言った国語の先生もいた。
職員会議中の発言で、何度もその言葉が出たのだが、他の先生方は気にしている様子もなかった。
さすが大人だ。いや、もしかして聞いてなかった(笑)。

かく言う私もそんな間違いを数限りなく繰り返しているんだろうな。
指摘して欲しい気もするが、実際そうされたら恥ずかしいだろう。

言ってやるのが思いやりなのか。気づかないふりをするのが思いやりなのか。

私としては言ってもらいたいが。でも、人には言えないな。

(写真は昼食を食べた日光江戸村「串尽」の店内)
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by usagi-kani | 2006-10-29 10:29 | 日記 | Comments(2)

ちょっと早い紅葉狩り

10月22日(日)、紅葉狩りに出かけた。
快晴で絶好の行楽日和だったのはよかったのだが、そのおかげで大勢の人で混み合ってもいたし、渋滞もあった。

残念ながら、紅葉にはまだ早かった。
下の写真は渋滞のクルマから撮ったものだが、この程度の色づき方だった。
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さて、行った場所は福島県南会津郡下郷村。
塔のへつりを見て、大内宿へ向かうという典型的な観光コースである。

この地を訪れるのはおそらく15年振りくらいになる。

最初は職場の先輩に連れてきてもらったのだった。
それともう一度、ドライブに来た記憶がある。
誰とだったか、相手が定かではない。
研修で知り合った友人とだったか。
その頃付き合っていた女性とであったか。
その友人は今では年賀状だけの関係になってしまった。
あの女性がどうしているかは全くわからない。

塔のへつり。
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吊り橋を渡ったのだが、人が多いせいかすごい揺れようで、怖かった。

塔のへつり駅。
以前は存在さえ気づかなかった。
こんな駅から乗り降りするのも楽しそうだ。
グループで騒ぎながらでなく、一人静かに降り立つ駅だろう。
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大内宿では、TVでもたびたび紹介されている「ねぎ一本そば」を食べた。
これが目的で訪れたのだ。
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ねぎですくって食べる。そして、薬味が欲しくなったらねぎをかじる。
味をどうこう言えるほどのそば通ではないので、コメントは控える。

紅葉には早かったが、とてもいい場所だと思った。
山深い、あるいは自然の懐に抱かれている……そんな表現がピッタリの土地である。
渓谷の風景も美しい。
また訪れてみたいな。カメラを片手に一人でのんびりと。
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by usagi-kani | 2006-10-26 04:40 | 日記 | Comments(10)

家庭学習をさせるために

私の勤務する高校には「課題検討委員会」なるものがある。
名前の通り、我が校が直面する課題の対策・解決を図る目的で設置されたものである。
校長・教頭を含め12名の委員がいるが、私もそのうちの1名である。

今回は委員会に私が提出した資料を提示する。

テーマは「家庭学習をさせるためにどうするか」である。
我が校の実態として、半数の生徒が家庭学習ゼロ、残りの半数も1時間程度で、それ以上して
いる生徒はほんの数パーセントしかいない。

せっかく作った資料を所在不明にしないための記録が目的であるが、同業者からの意見等を伺えれば幸いである。

***************

家庭学習をさせるための具体的方法案


 家庭学習の習慣化の方策として、相当数の学校で「学習の記録」を生徒に記入させることが行われている。生徒が自分の生活時間における学習時間の割合を自覚し、時間を有効に使うため、あるいは担任が生徒の学習状況を把握し、助言するためには有効な手立てであることは認めるが、個人的には「片手落ち」であると思う。
 なぜなら、肝心なのは「勉強時間」ではなく、「何を身につけたか」であるはずだからである。3時間机に向かっていてもほとんど何も身についていないこともあれば、勉強時間は1時間でも(内容の精選や学習法の工夫で)かなりの知識・思考力を身につけることもある。問題にすべきは、時間の多寡ではなく、(身につけた)学力の多寡であるはずである(「量」よりも「質」を問題にすべき、と言い換えてもいいかもしれない)。
 そこで、「学習の記録」をつけさせるにしても、「何時から何時まで英語をやった」のような単なる記録で終わりにするのではなく、今日の学習の内容を「本当に理解・記憶したか」を本人が確認できるようなものであれば理想的だと思う。
 一例を挙げてみる。(別紙参照)
 休み時間等を利用して用紙の計画欄にその日の家庭学習の計画を記入する。あらかじめやろうと決めているものはもちろんだが、授業担当者から「これをやってきなさい」と指示されたり、授業内容のここを復習しようと思うケースも多々あると想定されるので、授業中も用紙を手元に置いておき、指示されたことや自分でやろうと思ったことを随時記入していく。(特に暗記ものについては)可能な限り具体的に書くことで、翌日知識の定着を確認できるようにする。
 放課後までにはその日の学習予定が完成することになる。
 翌朝(現在の朝自習の時間?)、前日の学習内容が記憶されているかどうかの確認と反省を行う。達成度の低いものや定着を図りたいものは、再度その日の学習計画に入れてもよいし、例えば1週間後の学習計画に入れるなどしてもよいであろう。
 用紙のチェックは担任が行ってもよいが、生徒がどのくらい理解しているかの確認にもなるので、時には教科担任が行うのも有効だと思う。
 以上、(失礼ながら、深く検討した案というわけでもないが、)単なる学習時間の記録に終わらせないために、ということで提案させていただいた。

(以下別紙。記入内容が見えるように2枚に分割した)
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by usagi-kani | 2006-10-25 06:05 | 学校・教育 | Comments(0)
秋晴れの休日。
須賀川市の乙字ヶ滝へ行った。
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家からはほんの数キロ。小学校の遠足でも行ったし、中学・高校時代は幾度となく自転車で訪れた。馴染みの場所である。
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それほどの落差のある滝ではない。
だから、豪快さに感動するようなことはない。と言うより、期待して訪れると「えっ、これだけ?」とがっかりすることになる。
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それでも、松尾芭蕉が「おくのほそ道」行脚で訪れた地ということで、芭蕉と曽良の石像が建てられている。

ちなみに芭蕉が詠んだ句。

五月雨の滝降りうづむ水(み)かさ哉
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細い舗装路を子供と並び歩いてクルマへ戻る。
子供の軽快な足取りと、落ち葉を踏む音に妙に調和する私の足取りに、「人生の春と秋」を思った。
私の「夏」はとうに終わった。が、いくらなんでも「冬」にはなっていまい。「初秋」くらいに思いたいのだが……。

芭蕉翁の尊顔を拝見したので、私も拙句を作ってみた。

我が生に幾滝(いくたき)ありき 秋になる

枯れたって叫びたいだろ落ち葉踏む
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by usagi-kani | 2006-10-22 06:55 | 日記 | Comments(0)
司馬遼太郎「国盗り物語」(新潮文庫)読了。
全4巻の長い小説だった。
読み始めたのは確か8月末。2ヶ月近くもかかったことになる。
ついでに言えば、司馬遼太郎の小説を読むのはこれが初めて。意識して避けてきたわけではないが、「縁がなかった」……まさにそんな感じだ。

前編は斎藤道三、後編は織田信長が主人公ということになっている。
なってはいるが、後編の主人公は明智光秀だろう。

斎藤道三編を読んでいるときの感想は、「サラリーマン小説だな」というもの。
そのような小説のジャンルがあるわけではないが、通勤の暇つぶしに手軽に読める物語、という意味で。飽きてきた頃に、「濡れ場」が描かれて、もう少し読んでみようという気にさせられるから(笑)。

織田信長編は、信長がどうこうでなく、明智光秀の人生に哀感を覚えた。

家臣を道具として酷使し、利用価値がなくなれば容赦なく殺していく信長の激しい性格。
光秀は、やがて家臣たちは信長に切り捨てられるだろうことを予感する。信長の子を養子とした秀吉を除いて。
そして、その予想通りに事は進み、順番は光秀に回ってくる。
領地を取り上げられ、無禄になる。
それまで罵倒されながらも忠臣であり続けたのだから、せめて一矢を報いてもいいだろう……最後は光秀に共感(応援)しながら読み進めた。

時代が人を選ぶのだ。
世が世なら信長は「たわけ殿」のまま一生を終えたであろうし、光秀は(天下を治めるまではいかなくとも)権勢を誇れる地位に就き、未だに出世物語の主人公として人々の尊敬を集める存在たり得たかもしれない。

自分で切り開ける「運命」もある。
だが、どんな時代に生まれるかという「運命」はどうしようもない。
そんなことを思わせる光秀の人生であった。

***************

今回の記事を書きながら、「『地位につく』の「つく」ってどの漢字だっけ?」と辞書を引いた。
「ある地位・役職や職業などに身を置く」意のときは「就く」。ただし、帝位につく場合は「即く」とも書く……とあった。
地位も職業と同じ扱いでいいのか。
思わぬところで勉強になった。
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by usagi-kani | 2006-10-21 06:21 | 本・ことば | Comments(2)

顔晴ろう

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手帳をパラパラッとめくっていたら、3月のページにこんな走り書きがあった。

頑張る→顔晴る(笑顔をつくる)

ネットで目にしたのか、本で見たのか。
自分のために書いたのか、生徒に話そうとでも思ったのか。

半年も経つと何も覚えていない。
覚えていないからこそヘソクリを見つけたような「得した」感がある。

笑顔が明るい気持ちを作り出す。
「仕事に行きたくないなー」って朝ほど笑顔が必要。(いつも?)

さあ、今日も頑張り過ぎずに顔晴っていきましょう!
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by usagi-kani | 2006-10-20 05:59 | 写真・文章 | Comments(2)

携帯電話

vodafoneのV301SHを愛用している。
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もう2年半使用してきた。
きっかけは「一目惚れ」。
初めて見た瞬間から「なんて上品で、なんて格好いいんだ」と思った。
小柄なサイズも気に入った。ポケットに入れて持ち歩く私には大事なポイントだ。
それまで7~8年Docomoを使い続けてきたが、替えることを決心するのにそう時間はかからなかった。

今でもあらゆる携帯端末の中で最も格好いいと思っている。

機能的にはもちろん最新機種とは比べるまでもないが、使用のほとんどがメールで、通話は月に数回という私にはこれで十分。携帯電話でゲームをやる気もないし。
カメラが30万画素なのが唯一の不満かな。
まぁ、機能に合わせて使用すればいいだけの話なので、それを理由に替えようとも思わない。

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ストラップの「にゃんまげ」は知る人ぞ知る日光江戸村のオリジナルキャラクター。全然人気は出ていないようだが…。
このストラップは江戸村に行ったとき、弓道ゲーム(?)で、5本中4本を的中させて手に入れたもの。
これを使っているのは、そうやって手に入れたという誇り(?)もあるのかな。
ちなみに以前は新潮文庫「よんだパンダ」のストラップを使っていた。

さて、vodafoneは10月1日からSoftBankに替わったわけだが……
もちろんその情報はいろいろなメディアでアナウンスされていたから私も知っていた。
だが、実感したのはvodafoneのHPを開いたらSoftBankになっていたとき。
「あ、替わったんだ…」と初めて認識した。

どんなメディアよりもネットが私にとって一番リアルになっているのかもしれない。
いや、新聞よりもTVよりもリアルなメディアになっているな、実際。
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by usagi-kani | 2006-10-18 03:32 | 日記 | Comments(0)

自作教材(自分流解釈)

授業で使用した自作の教材を紹介していきたい。
ご同業の方のご意見などを伺えれば幸いである。

今回のは短歌の授業の終わりに実施するもの。
15年くらい前に作成したものだが、引用する生徒作品を替えるくらいで、基本的にそのまま使っている。

***************

「自分流解釈」にチャレンジ!

 これから授業で短歌を学ぶわけですが、初めに少し考えてみましょう。
 短歌(別に短歌に限ったことではないのですが)を味わう、とはどういうことでしょう? 
 歌の意味がわかればいいのでしょうか? それは「理解」かもしれませんが「味わう」とは違うのではないでしょうか。
 食べ物だって、「味わう」ためには口の中に入れなければなりません。「喉ごし」まで感じるためには飲み込まねばなりません。つまり「味わう」ためには自分の中に入れることが必要なのです。だから、短歌の場合も「その短歌を自分の中に入れてしまう」ことをしてみましょう。それを「自分流解釈」と呼ぶことにします。
 「解釈」とは、辞書によれば「物事やことばの意味をわかりやすく説明すること」です。だから、短歌の場合なら「その短歌の意味をわかりやすく説明すること」になるのですが、意味のわかりにくい短歌ならともかく、誰が読んでもわかることをわざわざ人と同じように「解釈」するのではつまりません。そこで、その短歌を読んで感じたこと、あるいはその短歌に触発されて心に浮かんだ風景やストーリーを自由に書いてみましょう。それが「自分流解釈」です。「自己流…」としないのは、あくまでもとの短歌にそって創造したものであって、勝手気ままに作ったものではないからです。「自己流」ということばには悪い印象があって後者のように取られかねませんから。
 自分の経験と想像によって満足いく「自分流解釈」ができたとき、その短歌を十分に味わい、自分の内に吸収したことになるのです。

 では、具体的にある短歌を例に「自分流解釈」を試みてみましょう。

吾をさらいエンジンかけた八月の朝をあなたは覚えているか        俵 万智

 わかりやすい口語の短歌ですから、歌の意味は一読して理解できますが、あえて「一般的解釈」をしてみると
「私をバイクのタンデムに乗せ、エンジンをかけて私を連れ去った八月の朝。あの朝をあなたは覚えているかしら」
ということになります。そのまんまでつまらないですね。

 さて、「自分流解釈」ならどうか。

「同じような毎日の繰り返しに、夏の太陽の明るさとは反対のやるせない憂鬱を感じていたあの八月。ある朝家を出ると、白いTシャツにGパン姿のあなたがいた。どうして、と問いかける間もなくヘルメットを手渡すあなた。そのまま一言も話さず、行き先さえ知らずに二人はバイクで走った。エンジンの振動がまるで私の鼓動のようだった。あのとき私がしがみついたのは、あなたの背中ではなく、未来だったのかもしれない。ねえ、あなたは二人の未来を決めたあの朝を覚えてる?」

 ちょっと遊びが過ぎたかもしれませんが、「自分流解釈」の「感じ」くらいはわかってもらえたと思います。

 もう少し例を、今度は生徒作品を挙げてみましょう。

いるはずのない君の香にふりむいておりぬふるさと夏の縁日        俵 万智
「金魚すくいや輪投げ、お面……縁日に一人で来るのって、なんて悲しいんだろう。あなたが仕事が忙しいって最近会ってくれないから、私田舎に帰って来ちゃったよ。もうこんな苦しい気持ち、長引かせたくない。だから、ある決心をして。なのに、あなたが好きな紺色の浴衣を着ている私がいる。どうして、と問うまでもない。本当はわかっている。わかっているけど……。
 綿アメを買って帰ろう、そう思って歩き始めたとき、ふわっと後ろからたばこのにおい。あなたに染みついているマルボロの、におい。胸がきゅっと苦しくなった。もう認めるしかないなぁ。あなたに会いたいってこと。少し、悔しい。振り向いた時から、私の負け。」(高1 女子)

さよならに向かって朝がくることの涙の味でオムレツを焼く          俵 万智
「最近私はついてないんです。愛鳥のピーコはどっか行っちゃいました。自転車なくなりました。仕事はクビになりました。そして……恋人もなくしちゃいそうなんです。私に愛想つかしちゃってるんです。今は自分が悪いってわかってるんです。自分でも、自分が嫌いです。だから、私は今日で変わると決心します。恋人ともけじめをつけます。あの人が好きだったオムレツを作りながら……あの人とも今までの自分ともさよならします。あれ、涙が出て来ちゃうよ。」(高1 女子)

 同じ詩や短歌を読んでも、感じ方は人それぞれ違います。「自分流解釈」はいわば「個性的な創造の営み」(!)であると同時に、自分という人間の感性を発見する試みでもあります。面倒だ、なんて言わずにトライしてみましょう。
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by usagi-kani | 2006-10-14 04:42 | 学校・教育 | Comments(4)

だれに向かって書くか

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齋藤孝著「原稿用紙10枚を書く力」(大和書房)を読んだ。

何か「文章読本」的な本はないかな、と探していて、目についたので購入した。
齋藤孝の著作を読むのは実はこれが初めて。こういう国語科教員も珍しいだろうな。

感想は……読む価値がないとは言わないが、1200円の価値はなかった、かな。

「3の法則」というのがたびたび出てきて、筆者も一番主張したいことのようなのだが、具体的にどうするか、実例(演習問題の形にしてもいいと思う)がないので、イメージがわかない。だから、結局自分が文章を書く際に活用できない。

「立ち位置」で「文体」が決まるというのはなるほどと思って読んだ。だけど、目新しさがあったわけではない。自分が無意識に感じていたことを明確にされただけのこと。まあ、それはそれで価値はあるのだが。
たとえば、「書くときに難しい一因は、だれに向かって、自分がどのような立場で書くのかが明確になっていないときだ。」という一文。まさにその通りなんだよね。

特に、ブログの場合そういった難しさを感じる。

日記として、読者を全く意識しないで書く、という人もいるのだろうが、それは案外難しい。特に、コメントがついたりすると、やはりある程度他者に「読まれる」ってことを意識してしまう。
他のブロガーはどんな読者を想定して書いているのかな。

以前の記事の「やぎさんゆうびん」なんかは、子供に向かって親の立場で、というのがはっきりしてたから、長い割には短時間で書けた。

自分でも気にしているのは、日頃先生という立場から生徒に話す機会が多いため(だろうと思うが)、ブログを書いていても上から諭すような文章になってしまうことだ。それが一番書きやすい。職業病の一種かな。

話題がずれてきたので、この本の評価に戻る。
読んでも損はしないけど、1200円出すほどの価値はないので、読むなら借りて読みましょう、ってところかな。

営業妨害になったらゴメンナサイ。(販売に影響するほどこのブログの読者はいないから、心配いらないか。)
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by usagi-kani | 2006-10-07 05:57 | 本・ことば | Comments(8)

子供に選ばれて?

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「子供は親を選んで生まれてくる」
「子供に選ばれて親になる」
そんな考え方がひとつの流行になっているみたいだ。流行という言い方は適切ではないかもしれない。しかし、複数の人がそのような考え方を述べているようだし、賛同する人も少なくないように感じている。

このような考え方が流行する背景には、子育てに苦悩する親たち(特に母親)が少なくない、という事情があるのだろう。
彼女たちを励まそうとして、発想された考え方なのだと思う。
つまり、現在の社会で必要とされている考え方なのだ。だから、「科学的にはあり得ない」ことなのに受け入れられるのだろう。

それはわかるのだが……。

私はこの考え方に嫌悪感を覚える。
励まされる人がいる一方で、傷つく人もいるからだ。

「子供に選ばれて親になった」と言う人に問いたい。不妊や流産・死産に悲しみ悩む女性に対して「あなたは子供に選ばれなかった」と言えるのか、と。

「言えない」のであれば、相手次第のご都合主義的な思想を許容することはできないし、「言える」のであれば、そもそも彼を人間として許容することができない。

どちらにしろ、私にはこの考えを認めることはできない。

いろんな人がいる以上、誰もを幸せにする思想や考え方は無理なものなのかもしれない。
みんなが自分に都合のいい思想を選択できるようにするには、たくさんの思想が必要になる。

そして、究極的には同じ人間はふたりといない。
だから、自分を支える思想は自分で創り出すしかないのだろうなぁ。
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by usagi-kani | 2006-10-05 05:44 | 写真・文章 | Comments(6)