日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

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村上春樹『鏡』論

主人公「僕」が体験した恐怖。鏡に映った自分を「僕以外の僕」だと感じ、さらにその鏡像に支配されそうになる。手にしていた木刀を投げつけて鏡を割ることで、かろうじてその危機を逃れる「僕」。そして、翌朝その場所に行ってみると、鏡などなかったことを知る……

現実には存在せず、しかも「僕以外の僕」を映し出す「鏡」。それは一体何なのか。

恐怖体験の夜、「僕」は風にあおられて開閉する戸の音を「うん、うん、いや、うん、いや、いや、いや……」と表現する。「うん」と「いや」の対立。これが、何かの対立を象徴するものだとすれば、何を象徴していると考えられるだろう。
一般的には「現実の僕」と「心の中に潜む(自分でも意識していない)僕」と考えてよいだろう。その両者がせめぎ合っている、その対立を「うん」と「いや」で表している、と。

この作品だけの解釈であれば、それが正当だと思う。

しかし、ここでは敢えて別の解釈を試みてみたい。
他の村上春樹の作品、例えば『ノルウェイの森』などと絡めて解釈すると、別の見方が見えてくるからだ。

『ノルウェイの森』で描かれているふたつの対立概念(諸説はあるだろうが)は「生」と「死」である。そして、この『鏡』もやはり同様の作品であると思うのだ。(と言うより、村上春樹作品のほとんどが「生」と「死」をテーマにしていると私は考えているのだが。)

恐怖体験のそのとき、その場所で、「生の世界」と「死の世界」がクロスしたのである。「鏡」はその両者をつなぐもの、つまり(生の世界からの視点で言えば)「死の世界への入り口」として出現したのである。(そう考えると、どこに出現してもよいはずの「鏡」が、学校の「玄関」に現われたことの意味づけも可能になる。)

……僕はその時、最後の力をふりしばって大声を出した。(中略)それで金しばりがほんの少しゆるんだ。それから僕は鏡に向かって木刀を思い切り投げつけた。……

この場面は、普通に考えれば、自分を支配しようとする「鏡像」に向かって木刀を投げつけるはずである。が、「僕」は「鏡」に向かって投げつけている。
これは、「僕」が、「僕」と鏡像の間にあるもの=「鏡」が死の世界への入り口であることを感じ取ったからだ。鏡像を倒しても、入り口が残っていては「死」から逃れることにはならない。だから、「僕」は「鏡」を破壊することで「死の世界」の入り口を閉じようとしたのだ。死からより遠くに(もちろん物理的な距離ではない)逃れるために。

この考え方の問題点は、『鏡』の作品中のどこにも「僕」が死を考えるような出来事が書かれていないことであろう。自由に生きる若い青年が、どうしてこの夜に死と向かい合うことになったのか、その理由が全くわからない。だから、「鏡」を「死の世界への入り口」とする考え方は的外れに思われるだろう。
だが、そこにこそ作者の死に対する考え方が読み取れるとは言えないだろうか。「死」は我々に予告してやってくるものではない。我々はいつどこで「死」にとらえられるかわからない。我々はいわば「見えない死」に囲まれて生きているのであり、それがいつ「見えるもの」として現出するかは誰にもわからない。そう、「鏡」が突然出現したように……。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。(『ノルウェイの森』)

そして、それに気づいた人間は、おそらく無常観や虚無感にとらえられて、「生」のエネルギーを喪失してしまう。
だから、彼らが生き続けるためには、意識的に「死」から目をそらし続けるしかないのだ。それが「僕」が家に「鏡」を置かない理由であろう。「僕」は「鏡」を見ないのではなく、「死」を見まいとしているのだ。
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by usagi-kani | 2006-08-30 05:35 | 本・ことば | Comments(4)
今年の夏、予備校のセミナーに参加した。
非常に刺激を受け、もっと文章を読み解く力をつけなければいけないと痛感した。
是非このブログにも記しておきたいと思っていたが、新たに文章を起こす余裕はないので、学校に提出した報告書を以てそれに代えたい。


■講座名:『入試現代文 解釈・解答の相対主義は越えられるか』

■講座の概要
 (唯一絶対の解答がないという意味での)現代文の相対主義には多くの国語科教員が悩まされるところであるが、その解決は可能なのだろうか。
 講師は、相対主義が生まれるのは現代文を「解法」で解こうとするからだと言う。現代文には数学の公式のような絶対的な「解き方」などないのにそれを求めるから、個人差が出てしまう。現代文にあるのは「読み方」だけである。課題文の内容(筆者の主張)を正確に読むことができれば、問いはすべてその内容(主張)と関連しているのだから、ひとつの正解以外はあり得ない。正解がいくつかあるというのは、裏を返せば、それぞれの解答者が正しく読めていない、ということに他ならない。
 以上のことを、東京大学の過去問と複数の解答例(予備校・出版社)を用いて説明した。(相当数が誤答と評されていた。)


■感想及び反省等
「国語教師として我々が生徒に教えたいのは何なのか。単に「機械的に問いを解ける」ようにすることか。そうではない。きちんと文章を読めるようにすることだ。だから解き方を教えるのではなく、読み方を教えなくてはいけない」という講師の考え方に共感を覚えた。
 ただ、全体を読み取ることができない生徒に少しでも点を取らせるためには解き方の指導もせざるを得ない現実もあるので、(この講師の考えは)トップの進学校を除いては「理想論」と評されるかもしれない。
 現代文の授業の原点について考えさせられたが、授業に生かすことは難しい。
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by usagi-kani | 2006-08-29 05:43 | 学校・教育 | Comments(3)
直木賞作家・坂東眞砂子さんが8月18日の日経新聞夕刊のコラム「プロムナード」に寄稿したエッセイ「子猫殺し」に対して、批判や抗議が殺到しているという。ネット上でも話題になっているようだ。

恣意的な抜粋になることを避けるために全文を引用する。

     ************

 こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。
 子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
 避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)

     ************

これを読んで、「人間の権利」という言葉が思い浮かんだ。
筆者は言う、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」と。
だが、そもそも他の動物を飼う権利が人間にあるのだろうか。

飼う権利があるなら、避妊手術する権利も生まれた子を殺す権利もそれに付随して「ある」ことになる。動物を飼うのは、その動物の「生」(人間で言えば「人生」。猫だと「猫生」になるのか?)を全て引き受けることであり、その「生」の中には、当然「生殖」も「死」も含まれているからだ。
飼い猫にも人権ならぬ猫権があるはずという理論は成立しない。猫は人間に飼われることなど望んではいないのだから、猫権があるなら「飼う」行為自体が否定されるから。

「避妊手術も生まれた子を殺す権利もない」とする筆者は、人間に動物を飼う権利があるとは考えていないことになる。
しかし、飼いたい。だから、飼ってしまう。
飼うこと自体が間違いなのだから、避妊も子猫殺しも間違った選択肢でしかない。
どっちを選んでも間違いなら……筆者は「殺しの痛み・悲しみ」とともに子猫殺しのほうを選択した、ということだろう。

私には、この筆者の言うことは(感情的にはともかく理論的には)正当に思えるのだが……。
(もちろん、飼う権利がないのに飼ってしまうというのは矛盾である。しかし、生き物を飼いたい気持ちは人間の本質的なものであり、その矛盾を指摘することは人間そのものの否定になるので、ここでは触れない。)

これに不快感を覚える人は、「避妊手術」という自分たちの選択(そしてそれを選択した自分たちの人間性)を否定されたと感じるているのではないだろうか。
さらに言えば、自分たちの中にある、動物を殺す残酷さと無関係でありたいという気持ち、つまり「いい人」でありたいという気持ちを暴露されたように感じるからであろう。言い過ぎだろうか?

「子猫を殺す権利はないから、避妊手術をするのだ」と「生命の大切さ」を謳うなら、野良猫・野良犬はどうする? 彼らを殺す権利だってないはず。生きていけるようにエサを与えればいいのか?

結局みんな「いい人」になりたいのだろう。「動物を殺すなんてとんでもない」と声高に言うことで、自分の「優しさ」を確認したいのだ。

かく言う私も、「子殺しに伴う痛み」を引き受ける強さはない。そして、その「弱さ」ゆえに避妊手術をしてしまうだろう。生まれた生命を始末するより生ませない方がはるかに精神的には楽だからだ。
精神的苦痛を引き受けたくないという「弱さ」、それが避妊手術の根底にあるものではないだろうか。

ただ、私はその「弱さ」を自覚していたいと思う。「弱さ」を「優しさ」や「正しさ」と勘違いして、「いい人」ぶりたくはない。違う選択をした「強い」人を非難したくはない。「私は子殺しに伴う痛みを引き受ける強さはありません。だから、避妊手術受けさせます」と素直に認めたいと思う。

筆者が今回この文章を書いたのは、筆者自身も弱くなった、つまり「子殺しに伴う痛み」に耐えられなくなってきたからではないか。そんな自分に対しての「喝」がこの文章ではないか。たぶん、強くありたい人なのだろう、この筆者は。

そんなことを思うのだが……。
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by usagi-kani | 2006-08-27 06:43 | 日記 | Comments(4)
小説で扱われる時間が長年にわたる場合、そのストーリーが重さや現実感を持つためには、それにふさわしいだけの文章の「量」を必要とするのだろう。多くの食事を消化するのに、時間が必要であるように。

「嫌われ松子の一生」(山田宗樹)を読んで、そんなことを思った。

次々に転変する松子の人生を読むことはたやすい。飽きる暇がないのだから。
だが、この軽さ・薄っぺらさは何なのだろうか。「作り物感」が絶えずまとわりついて、ひとつも作品世界に入り込めない。リアルさが全くないのだ。そんな作品が心を動かすことはなかった。

その原因を、私は「文量」の不足だと考える。
文庫本上下巻だから、もちろん「長い」し、「文量」も少なくはないのだが、松子の一生を描くには足りなかった。
次から次に変化が起こるわけだが、それぞれの状態がしっかりと存在する前に次の状態に移ってしまう。現在の状態を「真実」(もちろん現実ではない)として読者に感じさせる時間がないし、そのためのディテールも書き込まれていない。
この話では松子の20歳過ぎから50歳くらいまでの30年間が描かれているのだが、その30年が厚みを持つためにはおそらくこの3倍の長さを要求しているような気がする。
その長さを得て、初めて松子の一生は「真実」(重ねて言うが現実ではない)となって読者の心を動かすのではないだろうか。

残念だが、この「短さ」ゆえにこの小説は長く読まれる名作たり得ないであろう。

       **********

古典を読んでみたくなった。昔の話、という意味での古典ではなくて、名作として評価の確定した作品、と言う意味での。

新しい名作の発見は他の人に任せる。
古典の中に眠る自分のための宝石、それを発見する旅に出よう、と。
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by usagi-kani | 2006-08-22 05:00 | 本・ことば | Comments(0)
西林克彦著「わかったつもり」(光文社新書)を読んだ。

「読解力がつかない本当の原因」という副題に惹かれて読むことにした。
ある文章を読んで、それがよほど難しい文章でなければ、何となく「わかったつもり」になってしまうから、それ以上考えることをやめてしまい、本当に「わかる」に至れない、と筆者は言う。小学校の教科書の文章を例に、「わかったつもり」を読者に体感させるなど、展開の仕方もおもしろい。実際、猫の話は「ここまで読めるのか!」と驚きとともに感動さえした。

文章を「わかる」ためには、「文脈(背景;何について言っているか)」を正しくとらえることが必要だということだ。
だが、文脈の設定が案外難しいことだと思う。一人一人の思考回路や知識・経験が違うからだ。それでも、筆者の考えを正確に「わかる」こと、あるいは逆に、読者に正確に「わかってもらう」ことなど可能なのだろうか。相互理解の困難さと言うか不可能性と言うかを改めて思い知らされたような気がする。

最後のほうにセンター試験(に代表される国語の問題)について論じられてあったが、ここだけをもっとふくらませて1冊書いたら、受験生のベストセラーになるかもしれない。
ちょっと引用。

唯一絶対正しいという解釈は存在しません。しかし、ある解釈を「整合性がない」という観点から否定することは論理的にも可能で、しかも簡単です。ですから、「正しい」と「間違っている」という判定は、シンメトリーなものではありません。後者は明確に判定できますが、前者は「整合性はある」とか「間違っているとは言えない」という判定しかできないのです。

「間違っている」選択肢は選べる。しかし、「正しい」は選べない。様々な解釈の可能性があるから。
だから、「間違っていない」選択肢から、「常識」を使って選ぶしかない、ってこと。こういう状況なら普通はこう考えるはずだ、とか。
その「常識」がまた個人ごとに違っていたりするから、「納得いかない!」って生徒も出てくる。しかし、誰もが完全に納得のいく問題ってのは、誰もが正解してしまうから試験問題たり得ないことになるし。

国語教育に対する違和感は今後も無くならないだろうな、残念ながら。

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by usagi-kani | 2006-08-20 07:01 | 本・ことば | Comments(4)

まだまだ生きたい

「のび太の徒然草」というブログで「ドイツで活躍した日本人医師」という記事を読んだ。

……肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)さんという医師が、第2次世界大戦後、我が身をなげうってドイツでの医療活動に打ち込み、37歳の若さで亡くなった……

大まかな話は以上のようなことになるが、これでは感動も何もないので、是非元の記事を読んでいただきたい。

感動的な話だと思う。素晴らしい人だと思う。

若い頃の私も、そんな生き方に憧れた。
自分の信念や自分の使命に殉ずるのであれば、若死にしても構わない、と。
カントの哲学が好きだった私は、「良く生きることが大事」と考えていたのだ。長く生きることはいささかも人生の価値を決めるものではない、と。

でも、今はそうは思っていない。
前述の話を読んでの正直な感想は「素晴らしいとは思うけど、俺は37歳で死ぬのはイヤだな」であった。
何歳まで、という明確な区切りがあるわけではないが、ある程度は長生きしたいと願っている。
「良く生きる」のはもちろん大事だけど、「(ある程度)長く生きる」のが前提条件だと思うようになった。

この変化を「生に対する執着」とは思いたくない。
価値観の変化、と考えたい。

若い頃は「どう生きるか」に価値があると思っていた。それは裏返せば、全く価値のない人生もあるということだ。
それが今は、「生命そのもの」に価値があると考えるようになった。
「生命そのもの」が素晴らしい、「生きることそれ自体」が素晴らしい……そう考えるようになったのだ。

この価値観の変化をもたらしたのは何か。
子どもを、家庭を持ったこと?
あるいは、単に歳をとったということ?

原因はどうでもいい。とにかく私の現在の価値観はそういうものだということだ。

美談の主人公にはならなくていい。まだまだ生きたい。
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by usagi-kani | 2006-08-15 07:08 | 日記 | Comments(2)

日本語テスト

「ATOK 全国一斉!日本語テスト」なるものをやってみた。
30問で100点満点。問題の難易度によって配点が違っているようだ。

私の結果は……「77点」で「よくできました」。
6問間違えてしまった(^^;)

間違った問題の解説を読んでみたが、勉強になったものを挙げておく。このブログをご覧の皆さんにはわかるだろうか?


  問題17
  どちらのほうがより適切な言い方でしょうか。
  (1) 先生とお会いしたく、今から御自宅に伺います。
  (2) 先生にお会いしたく、今から御自宅に伺います。


わかるだろうか? 直感で正解する人はいるだろうが、きちんと理由まで説明できる人がいるとは思えない。

解説を読めば答えもわかるので、以下に解説を引用しておく。

何となく分かってはいるが、違いを説明せよと言われると困ってしまうのが助詞の用法です。
ここでは、とりあえず、「と」は対等の相手を、「に」は動作の向かう方向性のある相手を表すと覚えておきましょう。「先生とお会いする」というと、先生が対等の相手になり、礼儀を失する言い方になってしまいます。「に」を使って、「先生にお会いする」というほうがより適切な言い方になります。

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by usagi-kani | 2006-08-12 05:59 | 学校・教育 | Comments(2)

「大地の子」を読んで

山崎豊子「大地の子」読了。
7月20日過ぎから読み始めたので、ちょうど2週間くらいかかった。
読み始めた理由は、以前から読みたい気持ちがあったのと「図書館だより」で同僚の先生が絶賛していたからだ。

実際に読んでみて。
主人公陸一心が迫害される上巻は非常に読み応えがあった。
しかし、日中合作プロジェクトに話題が移った中巻・下巻は今ひとつ。
もっと主人公の生活・行動・心理に的を絞って書いてもよかったのではないかと感じた。
事実に忠実に書いた(中国を美化せず)ということなのかもしれないが、中国側のわがままばかりが述べられ、場合(時代の雰囲気など)によっては嫌中感情を煽る結果になる危険性もある。

作者のあとがきにもあるが、この作品を執筆するに当たっては膨大な取材活動を行ったことが察せられる。それだけに、事実からあまり離れられないという呪縛が作者に生じてはいないだろうか。
既読の「沈まぬ太陽」もこの「大地の子」も結末がいまひとつドラマティックではない。現実はこのようなもの(決してドラマティックでない!)なのだろうが、「小説」であるならもっと劇的な終末であっていいと思う。彼女の作品は最後が物足りない。竜頭蛇尾と言っては言いすぎだろうが…。

読んで損したとまでは言わないが、期待が大きかったせいか「こんなものか」との感想を持ってしまった。

ただ、中国人に対して大きな意識の変化が生じた。
たぶん母親からだと思うが、残留孤児のニュースが盛んに報じられていた頃、「中国の人は偉いね。敵の子どもを育てるんだから。すごく心が広いんだね」と聞かされ、それ以来「中国人=心が広い」という刷り込みがなされてしまっていた。
それがこの小説を読んだら、日本人の子どもを育てたのは、別に心が広かったわけではなく、労働力として、あるいは出来の悪い息子の嫁にするためだったとわかって、認識が大きく変わったのだ。考えてみれば、当時の中国の貧しい農村であれば、孤児を馬車馬のようにこき使うのは全く当然のこと。その当然のことに思い至らずにいた自分の「単純さ」「おめでたさ」を自嘲したくなった。

現在までのところ、私のナンバーワン長編小説は「永遠の仔」(天童荒太)。それを星5つとすると、「大地の子」は3個半といったところか。
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by usagi-kani | 2006-08-10 05:56 | 本・ことば | Comments(2)

ムシテックワールド

8月5日、ムシテックワールドに子どもを連れていった。
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ちょうど館長の養老孟司氏(どういうつながりで館長に?)の講演もあったが、子どもが90分も話を聴いていられるはずもないので、それは諦めて、他の展示や企画を見て回った。

工作プログラムで「まめクリップ作り」をやっていたので参加。
豆を木製のクリップに接着して、飾り付きのクリップをつくるというもの。
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左が子ども、右が私の作品。私のカメはわかると思うが、子どものはクルマだそうだ。言われてもわからない(^^;)

毎週プログラムは変わるので、そのうちまた行ってみようと思う。実は私もこの手のものが大好きなので。
子ども以上に親が楽しみだったりして(笑)。
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by usagi-kani | 2006-08-07 05:52 | 日記 | Comments(0)

新しいカメラ

念願の新しいカメラを買った。
リコー Caplio R3という機種である。
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これにした理由は、コンパクトサイズながら光学7倍ズームであること。
今まで使ってきて一番欲しいと感じていた機能が、高倍率ズームだったから。10倍以上あれば文句なしだったが、同サイズの他の機種は3~4倍だから、これだけでも十分選択理由たり得る。
また、昨秋モデルで、かつ展示品ということで値段もお得だった。昨秋発売されたときは5万円近くしたのに、半額程度の値段で買えた。機能的には最新モデルと大差ない(手ぶれ防止もあり)ので、いい買い物をしたと思う。
ボディカラーも黒か濃紺が希望だったのでピッタリ。
見つけるまで、ずいぶんいろんな電気屋に足を運んだが、その甲斐があった。

500万画素だが、設定で300万画素にした。L版(普通の写真のサイズ)でしかプリントしないので、これで十分である。大きくプリントする予定のときだけ500万画素にして撮影すればよいし。

試しに行ったマクロ撮影。いい感じで背景がぼけた。
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さあ、どんどん写真を撮るぞ!
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by usagi-kani | 2006-08-06 06:30 | 日記 | Comments(4)