日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

カテゴリ:写真・文章( 30 )

子どもと散歩をする

言うまでもなく、子どもは歩くのがゆっくりだ
単に歩幅が小さいからでなく
道端にある様々なものに
大人なら気にもとめないようなものにも
好奇の目を(心を)向けるから

大人の歩幅は
路傍の石ころや草花に目をとめるには
広すぎるのかも知れない

もしかしたら
子どもの歩幅が小さいのは
様々なものをゆっくり見るようにとの
神様の配慮なのか

そんなふうに
神様は実に上手くこの世をおつくりになったと
感じる瞬間がある

この科学万能の時代でも。
「神仏を信じない」と公言する私でも。
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by usagi-kani | 2012-04-14 09:20 | 写真・文章 | Comments(0)

図書館報の巻頭言

 本図書館報は毎年テーマを決めて原稿を依頼・掲載している。今年度のテーマを「絆」と決めたのは初夏の頃である。震災後様々な場面で話題となっていた「絆」。「今年らしい」「今年ならではの」テーマとしてこれ以上のものはないだろう、との考えからだった。
 半年後の12月、清水寺で発表された「今年の漢字」が同じく「絆」であったのを知ったとき、嬉しさが胸の奥に湧き上がった。それは、同じように感じ、考えている人がたくさんいるということを改めて実感したからである。
 顔も名前も知らない「誰か」。だが、同じことを感じている……同じ日本人として、あるいは同じ人間として、奥底のところでつながっている、そんなことを感じたのだろう。
 それもひとつの「絆」だ。
 絆とは、具体的にさしのべられた手や直接かけられた言葉だけではない。表面にはまったく現れないが、根本のところで同じ何かを共有している……そんな、すべての人間を(もしかするとすべての生物を)つなぐ絆もある。
 また、同時代を生きる者たちのつながりである、言わば「横の絆」もあれば、親から子へと綿綿とつながる「縦の絆」もある。
 そう考えると、我々は絆の中で生きていることに、あるいは絆によって生かされていることに思い至らずにはいられない。
 自分と同じ人間は一人としていない。顔などの外見はもちろん能力や嗜好、感受性などもそれぞれ違っている。その意味で人間は孤独である。でも、自分を取り巻く無数の絆を思うとき、孤独ではあっても決して「ひとり」ではないと気づき、安らぎと勇気を得ることができるのではないか。
 安らぎと勇気……これこそが今の時代に最も必要とされているものであろう。だから、「絆」が「今年の漢字」に選ばれたのも必然であったと思う。
                  *
 子どもはなぜかアンパンマンが好きである。
 2歳の我が娘も大好き。最初に話した言葉が「パンマン」だったし、暇があればアンパンマンのDVDを見たがる。グッズも相当数がアンパンマンだ。
 その関連で私も目にする機会が多いのだが、その中で疑問に思うことがあった。
 それはアンパンマンの歌詞。
   ♪何のために生まれて
    何をして生きるのか
    答えられないなんて
    そんなのはいやだ♪
 幼児向けのアニメなのになぜこんなに哲学的なのだろう……そんな思いが一因となって、普段なら絶対に読まないだろう本を手にすることになった。そして、非常に感銘を受け、出会いを感謝したい1冊となった。
 アンパンマンの作者、やなせたかし著『絶望の隣は希望です!』という本である。
 やなせ氏の仕事観、妻との闘病生活、作品に込めた思いなど、感銘を受けた点は多いのだが、ここでは一点だけ。
 書中、アンパンマンについて、やなせ氏はこう語る。

 ところが、この「顔を食べさせる」シーンが、たちまち大人たちから反発を買い、散々悪評を頂戴することになりました。幼稚園の先生から、すぐ文句が来ました。児童書の専門家からは、「ああいう本は、図書館に置くべきではない」とまでいわれました。
でも正義を行ない、人を助けようと思ったなら、本人も傷つくことを覚悟しないといけないのです。自己犠牲の覚悟がないと、正義というのは行なえないのです。
『アンパンマン』を発表した70年代は、自分さえ助かればいい、自分さえ得をすればいいという時代でしたから、自己犠牲をテーマにした話がウケるはずがないと、僕もそう思いました。でも、「真の正義は、自分を犠牲にしないと成し遂げることはできない」、このメッセージだけは、アンパンマンを介して届けたいと思ったのです。


 自己犠牲なしに正義は行なえない……この言葉が深く胸に染みた。
 「正義」とは、若干異なるかも知れないが、フクシマ50から始まる原発事故収束に向けて現場で戦う人たち、彼らは間違いなく英雄だ。
 だが、彼らをヒーローとして讃えるとき、胸に複雑な感情が渦巻くのを禁じ得ない。
 もし「誰か原発事故収束のために働いてくれる人はいないか」と呼びかけがあったとして、果たして手を上げることが出来るだろうか。自分には出来ない。「家庭があるからまだ死ぬわけにはいかない」などの理由をつけて、誰かに任せてしまうだろう。
 乱暴な言い方をしてしまえば、「自分はまだ死にたくない。だから、代わりに死んでくれ」……彼らを讃える感情の裏側に、そんなやましさや後ろめたさの存在を感じてしまうのだ。彼らだって「死んでいい人間」ではないはずなのだから。
 「自己犠牲のヒーロー」には私はなれないな……そんなことを考えさせられた。ある意味「胸が痛い」本だ。
                  *
 手をつないでの散歩中、娘が歌い出す。
   ♪アンパンマンは君さ
    勇気を出して♪
 娘よ、お父さんはアンパンマンにはなれないよ。でも……
 握る手に少し力を込める。
                  *
 守りたいと思う絆がある。
 自分を支えてくれる絆がある。
 絆の中で人は生きる。
 絆は時に自分を縛るうっとうしいものにもなる。
 それでも、絆があるということは幸せなことだと思う。
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by usagi-kani | 2012-04-03 21:36 | 写真・文章 | Comments(0)

綿毛

俵万智『プーさんの鼻』で気に入った短歌。

生きるとは手をのばすこと幼子の指がプーさんの鼻をつかめり

親子という言葉見るとき子ではなく親の側なる自分に気づく

たんぽぽの綿毛を吹いて見せてやるいつかおまえも飛んでゆくから

特に「たんぽぽの…」が好きだ。
そもそも新聞の書評でこの短歌が紹介されているのを見て、「いいな」と思い、読んでみたくなったのだった。
紹介されているのが他の短歌だったら、読もうという気にならなかったかもしれない。
そう考えると、これもひとつの「縁」。出会った短歌すべてとはいかなくても、心に残ったものくらいはずっと忘れずにいたい。

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たんぽぽの種がどこに落ちるのか……それは「運命」という風しか知らない。
人間の場合も同じ。
親にできるのは祈ることだけだ。どうか、その場所でたくましく生きていって欲しい、と。
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by usagi-kani | 2007-06-30 08:15 | 写真・文章 | Comments(2)

もしも…

人生には無数の「もしも」が存在する。

いや、人生には「もしも」なんかない、今ある現実がすべてだ、という人もいるだろう。
正しい考えだと思う。
かつての私もそう考えていた。

だが、人間は想像する生き物だ。「もしも」を想像しない人間などいない。
「現実」は、人間の匂いが付着して、つまり「もしも」という可能性をまとって初めて「人生」となり得るのだと思う。
世界には「現実」しか存在しなくても、人生には「もしも」が存在する。そういうことだ。

          * * *

このブログにも何度も登場しているが、私には息子が一人いる。
息子一人しかいない、というべきか。

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一人だけの子供が男の子だったことに不満があるわけではない。
一人だけなら男の子、と思っていた。
それでも、「もしも」を考えることがある。

もしも自分に女の子がいたら……

          * * *

もし娘がいたら、私にはやってみたいことがある。
それは、あるものを贈ること。
何を?

真珠を、だ。

          * * *

真珠は貝の中で作られる。
(人間によって)体内に入れられた異物。それに傷つけられた貝は、身を守るために液体を分泌してその異物を包み込もうとする。
やがて、それは何千もの層になって真珠となる。
いわば、貝の流した涙の固まり、それが真珠なのだ。
(ちなみに、貝の半数は「痛み」に耐えられずに死んでしまうという。)

          * * *

貝の涙が美しい珠を作り出すように、
流した涙を心の美しさに出来るような、そんな女性になって欲しい……

そんな願いを込めて真珠を贈ってみたかった。18歳か20歳の誕生日に。
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by usagi-kani | 2007-06-13 05:03 | 写真・文章 | Comments(4)
随分と前のことになるが。
3月19日は息子の卒園式だった。

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幼稚園を卒業するまでに成長したということだから、「うれしい日」のはず。
でも、ほとんどの母親が泣いていた。
うれし涙? いや、「別れ」の雰囲気が涙を誘うのだろう。

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教室に掲示してあった自画像。1年ほど前からやたらと首の長い人物画を描くようになった。
これはまだ短い方だ。

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式後にパチリ。幼稚園での最後の写真。後で横になっている(砂だらけの校庭なのに!)のは一番の友達。

さようなら、幼稚園。

だが、息子にはもう一つの「さようなら」があった。

それは、好きだった女の子がこの日を最後に遠くへ引越してしまうのだ。
おそらくもう会うことはないだろう。

さようなら、幼稚園。
さようなら、初恋。

この日はどちらの「さようならの日」として息子の心に刻まれるのだろうか。

子供の目は未来を見つめる。
だから、どちらもただの通過点として忘れ去られてしまうかもしれない。

          * * *

息子の初恋を書いたついでに、自分の初恋も書いてみたい。
こんな「ついで」がなければ、書くこともないだろうから(照)。

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小学校4年生のときだった。
相手は色の白い可愛い子。
好きになったきっかけは覚えていないが、外見に惹かれたのだろう。その子の雪のように白い肌を、きれいだなぁと眺めていた記憶がある。触れたいなどとは考えもしなかったが。

「好き」という意識はあった。だが、それを「初恋」として自覚していたのかは思い出せない。後から考えれば初恋だったということであって、当時はその意識はなかったのかも知れない。

この初恋に関する思い出はふたつある。

ひとつは、年末のこと。
年賀状を出すために、親しい級友たちに住所を聞いて回った。
もちろん、最も年賀状を出したかったのは、彼女に、だ。だから、どういう経緯でかは忘れたが、彼女の住所は最初に調べてあって、ノートの一番上に書いてあった。
ある女の子に「住所書いて」とノートを渡したとき、たまたま近くにいた彼女がノートをのぞき込んだ。そして、不思議そうに尋ねた、「どうしてわたしの(住所が)書いてあるの」と。
何も答えられなかった。上手い言い訳なんて思い付くはずもなかった。真っ赤になってうつむくしかなかった。

彼女はどう思ったのだろう。
わからない。少なくとも「この子、わたしのこと好きなのかな」とは思わなかったはずだ。まだ本当に子供だったのだから。30年前の小学生は現代の子供ほどませてはいなかった。
だから、不思議に思っただけで、私の気持ちに気付くことはなかっただろう。間違いなく。

もうひとつ。
体育の時間に私が膝を擦りむいたことがあった。
保健委員と保健室に行って消毒してもらうことになったのだが、保健委員が他ならぬ彼女だった。

保健室には誰もいなかった。

二人きりの保健室。椅子に座った私の足元にひざまずいて治療をしてくれる彼女。
その白い手をドキドキしながら見つめていた。
その後も何度か「ドキドキ」を体験した(はずだ)けれど、最も懐かしくそして切なく思い出す「ドキドキ」はこのときのものだ。静かな保健室に自分の心臓の鼓動が響いているように感じた。そして、おぼろげながら何かしら性的なものを感じていたのだろうとも思う。

以上のふたつが私にとっての初恋の思い出だ。

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彼女に対する感情は中学校に入るまで続いた。
中学ではクラスが違って目にすることさえ少なくなり、次第に小さな存在になっていった。
彼女は……可愛い子だからやはり目立ったのだろう、中学校に入って間もなく上級生と付き合いだした。
と言っても、「付き合う」がどうすることなのか、当時の私にはさっぱりわからなかったのだが…。

そんなふうにして私の初恋は終わった。

終わった?

いや、続いていた(いる?)のかもしれない。
それ以降も好きになったのは「色白で小柄」、つまり初恋と同じタイプの女性ばかりだった……。
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by usagi-kani | 2007-06-01 05:19 | 写真・文章 | Comments(6)

言葉にする

長いこと放置してしまった。
2ヶ月も更新しなかった。

調べてみると、この期間も1日10件前後のアクセスがあったようだ。
書いている自分でさえ見ることもなく放っておいたのに、時折訪問してくれる人がいたというのは嬉しいものだ。
だが、彼らは直接面識のない人、ということを考えると、気にしてもらっているのは自分という存在ではなく、あくまでこのブログということになる。

素直に喜んでいいのか…?

大いに喜ぼうと思う。ブログだって自分だ。自分の一部がブログだ。
いや、拡大した自分がブログなのか。
書きためられた記事を振り返るとき、それは確かに自分が創出したものなのだけれど、逆にその中に自分が存在しているような感覚を覚える。記憶は自分の一部だけれど、記憶の中に自分が存在している……そんな感覚と等しいだろうか。

さて、この期間なぜ書かなかったか?

仕事が忙しい。
それもある。

だが、それは真の理由ではない。

真の理由(大袈裟な表現だな)は、ブログどころではないほど、他のことに心を奪われていたからだ。
そして、本当にブログに書きたいことがあるとすれば、そのことを置いて他にはなかった。
だが、それは決して書けないことでもある。

書きたいことが書けない。
それでも文章を書くとするならば……文章を書く意味はどこにあるのだろう。
いや、そもそも自分は何のためにこのブログを書いて来たんだ?

記録? 自分の記録ならブログとして発表する必要はない。忘れたくないことくらいは覚えていられる。

伝達? 何を自分は伝えたがっているのか。あるいは誰に? そもそも伝えるべきことなど持っているのか?

整理? 文章化は理性的な作業だ。だから、文章化することで未分化な感情を整理できる。だが、それは未分化ゆえに持ち得たエネルギーを喪失することでもある。

わからない。

だが、私が確信を持って言える理由があるとすれば、それは「懺悔」だ。
まだ書いてはいない、でも、いつかは書きたい記事がある。20代の頃の記憶だ。未だに解決することも、消化することも、忘却することもできていない、「痛い」思い出。
キリスト教徒が神の前で罪を告白し、許しを請うように、私も文章化することで許しを請いたいのだ。
何に向かって告白し、何によって許されたいのかはわからない。
だが、言葉にすることの「働き」「理由」が「懺悔」にあることは、私にとってだけでなく、おそらく全ての人間にとって真実なのではないか、と思う。
人は、許されたくて「話し」「書く」のだろう。

          * * *

4月22日、教え子の結婚披露宴に招待された。
そのときのメッセージカード。
夫婦の間でこそ「言葉にすること」は大切。話すことが許されたいということなら、話さないことは相手に対する謙虚さや思いやりを失ったことに他ならないから。

自戒を込めて。

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by usagi-kani | 2007-05-25 06:02 | 写真・文章 | Comments(4)

学級通信第4号の詩

ガイハンボシって病気がある
足に合わないカワイイ靴、カッコイイ靴でなるらしい
自分をよく見せたいって気持ちが生み出す病気…
だとしたら
「心」のガイハンボシってのもあるのかな
見栄とか虚栄心って私にもあるけど
真っ直ぐな「心」の親指で真っ直ぐに歩いていきたいな
ところで、あなたは……
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by usagi-kani | 2007-03-20 05:48 | 写真・文章 | Comments(2)

ゆっくり

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夢を持て
夢を叶えろ

本を読んでも
歌を聴いても
先生の口からも

夢、夢、夢

夢が見つからない君は
置いてきぼりを食らったようで
焦りや罪悪感さえ覚えてしまう

急がなきゃ
急いで夢を見つけなきゃ

だけど
本当は
ゆっくりでいい
ゆっくり自分を大きくしていけばいい

そうすれば
夢のほうが君を探しに来るよ

自分を大きくしていこう
ゆっくりじっくり
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by usagi-kani | 2007-03-17 06:11 | 写真・文章 | Comments(6)

「有限」であること

3月1日卒業式。
こんなことを思った。

…高校は3年間で卒業するところなのだな…

言葉にすると「当たり前」過ぎる。今さら何を、と思われるだろう。
だが、限りがあること、終わりが来ること、「有限」であることにしみじみと思い至ったのだ。

3年間という「限り」。それがあるから、高校時代の一瞬一瞬はかけがえのないものとなる。
無限に続くのであれば、「今」はその輝きを失ってしまうだろう。

そんなことを思った。
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考えてみれば、高校生活ばかりではない。
全てのものに限りがある。終わりが来る。
永遠に続くものなどない。
なぜなら、認識する主体である「私」は死んでしまうのだから。
いつか必ず生命の終わりを迎えるのだから。

それは悲しいことだろうか。
そうかもしれない。

でも、素晴らしいことでもある。

人生に限りがあるから、人は「今」を精一杯生きようとする。
永遠に生きられたら、毎日を怠惰に過ごしてしまうだろう。

可能性に限りがあるから、自分に与えられた能力を最大限に伸ばそうとする。
無限の可能性など嘘だ。自分にはこれしかないと思えるから、それを頑張れる。

出会いに限りがあるから、誰かを心から愛そうとする。
無限に出会いがあるのであれば、誰かに執着する気持ちもなくなる。
それは、苦悩や嫉妬から免れた「楽」な生き方かも知れない。が、その激しさを知らなくて何が人生だろう、とも思う。

「無限」になど価値はない。
人生は「有限」だから素晴らしい。
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by usagi-kani | 2007-03-13 05:30 | 写真・文章 | Comments(6)

タメイキの反対

タメイキ、を反対から読むと、キイメタ……決いめた!

「ため息」を「決断」に変えるには逆立ちすればいいってこと。

精神の逆立ち。

それは、ちょっとしたことなのだろうか。
それとも、とてつもなく困難なことなのだろうか。
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by usagi-kani | 2007-02-10 17:16 | 写真・文章 | Comments(2)