日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

カテゴリ:学校・教育( 49 )

今日のは満足

いばらき総文、本日のお弁当。
見た目も味も大満足。(写真の向きはお許しを。)
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2泊3日の出張もあとは帰るだけ。
とても楽しい時間を過ごせました(私も生徒も)。
関係者の皆さん、お世話になりました。ありがとうございました。
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by usagi-kani | 2014-07-30 15:55 | 学校・教育 | Comments(0)

何がいいのか

いばらき総文に2泊3日で生徒を引率して来ている。
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今日のお昼は総文オリジナル弁当。
開催地の特産品を使ってあるのだが、生徒への(私自身もだが)評判はいまひとつ。
レンコンが入ってないほうが、ハンバーグは美味しいような…。
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開催地の特産品を知ってもらいたい、独自性を出したい、という意図はわかるのだが、その結果「あまり美味しくない」になってしまうのはどうなのだろう?
特産品を使ってなくても、美味しいお弁当を食べたい、と考える人は多いのではないか。
あまり美味しくないその土地ならではのお弁当と、美味しいがどこででも食べられるお弁当……どちらがいいのか。
私は旅行先でもファミレスを探してしまう人間だから、「その土地ならでは」にあまり魅力を感じないのだが、主役の高校生たちはどうなのだろう?
(せっかくのお弁当に批判的でごめんなさい。)
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by usagi-kani | 2014-07-29 22:33 | 学校・教育 | Comments(0)
梶井厚志氏の『「わらしべ長者」の経済学』。
年度初めに「今年度はどの教材をやろうかな」と教科書を一通り読んでみて、「これは面白い。絶対やろう」と思ったのがこれ。「羅生門」と並んでこの教科書(数研出版「国語総合」)で扱いたかった教材だ。
昔話「わらしべ長者」をモデルに経済学の考え方を読者に理解させようとしている評論である。文学などというものを志す人間の常として(?)私も経済や政治には疎いのだが、非常にわかりやすく説明されていると思った。経済学というと「金儲け」が連想され、それゆえ「ずるい」「汚い」といった方向に連想は進んでしまうのだが、この評論では、「自発的な取引によって、取引に参加した全員が利益を得る」つまり「交換によって皆が得をする(幸せになる)」のが経済学の原則だという。
確かに、消費者は幸せになりたくてものを買う(お金を払う)のだから、お金を得たということは人を幸せにしたということに他ならない。お金をいっぱい儲けた、ということは、それだけ多くの人を幸せにした、ということになる。そう考えれば「金儲け」は卑しいことでも恥じるべきことでもなく、むしろ誇るべきことなのかも知れない。
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by usagi-kani | 2014-02-26 22:29 | 学校・教育 | Comments(0)

「I was born」授業ノート

吉野弘「I was born」。
これを授業で扱うのは3度目のはず。毎回素晴らしい詩だなと思う。

今回の詩の授業は「同じ詩を読んでも人によって受け取り方は違うんだなぁ」というのを実感してもらうことに主眼を置いた。だから、感想を記入したカードの回し読みなども行ってみた。

授業中も挙手させて各人の読み取りの違いを確認しながら進めた。
「I was born」で言えば、「白い女」という言葉ひとつとってもイメージが違うことを理解してもらうために手を挙げてもらった。「白い服を着た女」65%、「色の白い女」35%といったところ。
また、「父親が『僕』に蜉蝣の話をした理由」については、「確かに、自分の意志で生まれてくるのではないかも知れない。だが、親は自分の命を犠牲にしても子を産む。その重さを考えて積極的に生きて欲しい、と伝えようとした」が80%。「いや、自分の意志でないというのは間違いだ。子供は親を苦しめてでも、時には親の命を奪ってでも生まれようとして生まれてくるのだ、と伝えようとした」が20%。もちろん、どちらも間違いではないのだから自分の読みを大切にするようにと話した。
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by usagi-kani | 2013-11-24 20:28 | 学校・教育 | Comments(1)
そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑と一緒に、心に中へ入ってきた。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。

老婆には刃が突きつけられている。その刃の持ち主が自分に対して憎悪と侮蔑を抱いたらしい……それを感じ取った老婆が「このままでは殺される」という恐怖を覚えたであろうことは想像に難くない。つまり、この後語られる「老婆の論理」…「悪いことをした者には悪いことをしても許される」「自分が生きるために仕方なくする悪は許される」…は、殺されたくないがために苦し紛れに口にした論理に過ぎない。その理論に基づいて女の髪の毛を抜くことを決めたわけではない。
しかし、そんな苦し紛れの理論でありながら、特に破綻したものではないし、素直に我々読者の胸に入ってくる。それは、老婆が明確に言語化することはなくても日頃から感じていたことだからであり、我々にとってもそうであるからだ。はっきり意識することはなくとも、そういうものだ(あるいは、そういう考えもあるだろう)、と思って我々は生きているのだ。
では、なぜ我々は「老婆の論理」を「そういうものだ」と思っているのか。生まれつき備わっている本能的な考え方なのか。教育によってすり込まれたのか。生きているうちに自然に身につけたのか。それとも……。
今年度の授業ではそんなことを考えさせてみた。

(感想は書いた生徒自身に著作権があると思われるので隠しました。)
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by usagi-kani | 2013-07-03 21:53 | 学校・教育 | Comments(0)
残念ながら答えはなしです(笑)
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by usagi-kani | 2013-06-29 20:56 | 学校・教育 | Comments(0)
芥川龍之介「羅生門」の授業をやっていて驚いたことがある。

「『下人』に『大きな面皰(にきび)』があることから、どのようなことがわかるか」という発問。

以前は(少なくとも前回この教材を扱った3年前までは)「下人が若者だということがわかる」という、こちらが期待した答えがすぐに返ってきたものだった。

今回も当然そうなるものと思っていたのだが……。

返ってきた答えは「下人の栄養状態が悪いということ」「下人が顔を洗うこともできないほど追い詰められていること」というものだった。それも一部の生徒ではなく、複数のクラス(というより私が担当しているすべてのクラス)で、こんな答えが返ってきたのである。

初めて聞いたときは、「どうしてそんな答えが…」と驚いたが、すぐに納得した。

現代の高校生にとって「ニキビは体調が悪かったり、洗顔を怠ると出来るもの」という認識なのだ。「ニキビは青春のシンボル」なんてCMがあったが、「ニキビ」=「若さ」なんてイメージはもはや過去のものになってしまったようだ。

ま、授業では「全体で何を言おうとしているかを考えて部分を読め」と言っているので、「ここは下人の困窮した状況を述べている場面だから、下人が顔も洗えないほど追い詰められていることを表しているはず」と考えてくれたのなら、授業で教えたことがちゃんと伝わっていると喜んでいいのかも知れないが。

なんにしても、時代は変わったな、と実感した出来事だった。

そうそう、「シンボル」と言えば、「……仏像や仏具を打ち砕いて……」の「仏像や仏具」は「モラルや道徳心」の象徴である、つまりここは困窮したあまり人々のモラルが崩壊したということを表している、ということも生徒たちには難しいようだ。説明されると、なるほどという顔をして聞いているが、予習の段階ではまず出来ていない。

現代の子どもたちにとって仏具なんて生活に困ったら真っ先に処分してしまうものなのかも知れない。

反対に絶対に最後まで手放さないのがケータイやスマホなんだろうな。
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by usagi-kani | 2013-05-18 19:18 | 学校・教育 | Comments(0)
国語総合の現代文。
新1年生の最初の教材は、小川洋子さんの随想「人と人が出会う手順」。
高校に入学して、新しい友達と出会って……まさにこの時期に扱う教材としてふさわしいものだと思う。

抜け殻、というささやかな言葉に導かれ、こうして出会った不思議をしみじみと味わった。


筆者は、「誰かと知り合う」こと、を「出会い」とは考えていない。ガイドさんと知り合うのに「抜け殻」は関係していないからだ。ガイドさんと「抜け殻の話で一緒に笑った」からこそ、「抜け殻に導かれた」と言えるのである。つまり、筆者の考える「出会い」とは、単に「知り合う」ことでなく、相手との関係性を構築することなのである。わかりやすく言ってしまえば「相手と親しくなること」が「出会い」なのだ。だからこそ、最後の灯台守研究会についての想像も「…誰かと誰かが出会い」で終わらずに「灯台守の文献を調べたり、各地の灯台を訪ね歩いたりして、絆を深めている様子」にまで及ぶのである。

たまたま同じ学校に入学し、同じクラスに振り分けられた生徒たち。
彼らはまだ真に「出会って」はいない。これから授業や学校行事といった経験を共有することで「出会って」いくのだ。いわば「偶然」の出会いを「必然」に変えていくのである。
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by usagi-kani | 2013-05-17 23:04 | 学校・教育 | Comments(4)
大人になるとは、自覚的に生きること。言い換えれば、自分で自分の人生を選択し、そしてその選択に責任を持って生きること。そうやって生きることで、この「世界」に自分の居場所を作り出すことが出来るのだ。
主人公の小学5年生というのは、まさに「大人への第一歩を踏み出す」年頃だろう。それまでは無自覚に生きていた。自分で自分の人生を選択することもなかった。だが、そろそろ「世界」に出て行かねばならないことを感じ始めている。つまり、まだ「世界」には居場所がない。少年がお通夜や葬式(まさに大人の世界だ)で感じる居場所のなさは、自分がこれから生きていく「世界」での居場所のなさに他ならない。

納屋のわきに、ほの白いものが見えた。
祖父のタオルだった。
手を伸ばしかけたが、触るのがなんとなく怖くて、中途半端な位置に手を持ち上げたまま、しばらくタオルを見つめた。


中途半端……それが子どもでも大人でもない少年の立場だ。祖父のタオルに触れられないのは「未知のもの」が怖いからだ。「未知」を怖れるのが人間だから。
「未知のもの」……それはおそらく「死」ではなく「生」である。タオルは祖父の「生」を象徴するものだ。まだ「人生を生きていない」少年にとって「生」こそが恐るべき「未知」なのである。
そのタオルを父親が少年に渡すというのも象徴的である。男の子を「大人の世界」に導いてやる、それこそが男親の役割だろうから。

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by usagi-kani | 2013-01-03 06:31 | 学校・教育 | Comments(0)
今回の教材は、問題を別プリントに印刷して配付した。
よって、板書量は普段よりは少ない。
そのため手抜きして(?)ノートを作らずに授業に臨んでしまったので、生徒のノートをアップする。
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by usagi-kani | 2012-11-13 05:23 | 学校・教育 | Comments(3)