2007年 01月 13日
『14歳からの哲学』を読んでこの人の著作はどうも文章のリズムが合わない。素直に言いたいことが頭に入って来ないのだ。「もっとわかりやすく書いてくれよ」と言いたくなる。もちろん、この文章で十分わかりやすいという読者もいるだろうし、そのような文体で書く必然性が筆者にはあるのだろうから、その要望は私の単なるわがままでしかないのだが。
それでも今回の『14歳からの哲学』は、対象が若年であるだけにかなり読みやすいほうだった。
中でも「15 友情と愛情」はなかなかよかった。
「本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだ。でも、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。」
筆者はそう問いかける。
そして……一人でいることに耐えられないということは自分を愛することができないということだ。自分を愛することができない人に他人を愛することなどできるわけがない。自分を愛し、孤独を味わえる者同士が幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしいのだ……と論じていく。
確かに、人間は自分と釣り合いの取れる相手を選ぶ。自分を豊かにしなければ、良い友人などできるわけがない。納得。
ところで、先ほどの「いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう」という問いかけは、友だちの場合以上に、恋人や結婚相手に関しても言えると思う。
恋愛至上主義とでも言うべき現代の風潮。その中では、恋人がいないことは罪悪にさえ思われる。昔ほど絶対的ではなくなったとは言え、結婚適齢期という縛りは(身体的にも)存在する。
そんな中で「(恋人が)いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいい」と言い切ることは困難だろう。よほど「強い」人でなければ。
多くの人は弱い。いくら自己の信念とはいえ、流れに逆らって立ち続けるつらさより、流される気楽さを選択するだろう。
筆者の池田さん、「なぜ思えないのだろう」の答えは、人間は弱いから、ですよ。
人間は、「いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいい」と思えるほど強くない。自信のなさから目をそらすための虚栄心や、それを満たすことで得られる自尊心に依って生きている弱い生き物なのです。
「知己に巡り逢うということは、とても幸せなことなんです。一生に一度~一生に一人~逢えるか逢えないかかも知れません。そして・・・その人は実の親であったりもするのです。かけがえのない存在と気づく自分になったときのことです・・・。」
かなりの年令を重ね来て・・・~らしき人に巡り逢えているように考えるようになりました。この場合~性別は関係ないとも思います。
傷つくのがこわいから、一人でいいと思う人も増えましたね。
その場合は、自分にとって都合のいい世界が友達とか、恋人なのかな?生身の人間みたいに自分を傷つけたりしない…
それでも、心の底では、生身の人間を求めているのかな。
この場合の知己は「自分を理解してくれる人」という意味でしょうか。
そうであれば一生に一人逢えるか逢えないかでしょうね。
たぶん、多くの人は逢えないのだろうな、とも思います。
私が感じるのは、一人でいいと思う人が増えたのではなく、表面的に一人じゃないと装う人が増えた、ということです。友だちとも思っていないのに、寂しいから一緒にいる……そんなつき合いが増えているような気がします。
ケータイの名前は一杯だけど、心の寂しさはなくならない…そんな人が増えているのでは?
いっぱい友達もいて、忙しくお付き合いしているけれど、それは一緒にいてくれる人がいなくなるのがこわいから、一人になることがたえられないから?
そりゃ、孤独はさみしい。でもね…と思ってしまいます。
よく聞くのは、一人でいるのはさみしいから、簡単に深いお付き合いになってしまう少女の話…
新聞に書いていました。
「私たち世代(40代養護教諭)はコミュニケーションを重ねに重ねて、たどり着くのが性行為だった。今はメール同様、他人と自分をつなぐためのコミュニケーション手段になっているように思える」 と…
性行為までの距離が短く簡単になっていますね。必要とされる感覚が欲しいからでしょうか。
友だち100人できるかな、じゃないですが、友だちや恋人がいる=人間として優れている、という価値観が流布しすぎているんじゃないでしょうか。
今やってる仕事(心の教室)の関係で読んだのが、
齋藤孝の「友だちいないと不安だ症候群につける薬」。
それなりに参考になりました。
彼は「孤独」の大切さについても話しています。
中の「偏愛マップ」というのを、生徒たちに書いてもらおうと企画してます。
友情や恋愛に言葉はいらない、という説もあるでしょうが、
やっぱりいっぱい「おしゃべり」しなくては、と思います。
そういう「友だち力」に支えられた恋愛は長続きする、という説もいいなあ、と。
もともとはこの本の中でとりあげている、「青い目茶色い目」~教室は目の色でわけられた~という、アメリカの、優れた人種差別を考える研究授業のことを調べていてたどりついたのでした。
差別の問題はいじめの問題にもつながると思います。
もと「いじめられっこ」としては、苦い思い出とともに、色々考えてしまいます。
現代の若者(に限らず、かな)は孤独を嫌って「群れ」たがりますよね。友だちや恋人がいないと不安で仕方がないのでしょう。自立・自律からは遠い状態になってしまっていると思います。
>もと「いじめられっこ」としては
ブログやってる人って「いじめられっこ」が多くないですか? 私もどちらかと言えば(いじめとは基本的に無縁でしたが)いじめられっこのほうかな(笑)。