2006年 11月 22日
棚倉城趾を歩く出張の帰り、棚倉城趾へ寄ってみた。
ここを訪れるのは初めてである。
入り口付近にあるベンチ。
可愛いのだけれど、動物が犬と猿なのが気になる。
犬猿の仲の人は別れて座ってください、ということだろうか。
まさか、ね。
入り口には巨大なケヤキがそびえ立っている。
樹齢は600年とか。これを見ることができただけでも来た甲斐があった。
根本のあたり。
この異形を作り出したのは何だろう。自らの重さだろうか。我が身をゆがませながら生きていくのか……そう思うと痛ましくさえある。
城趾内を散策する。
頭上は一面の赤。
ここまで赤いと「不自然」な感じさえする。
自然を不自然に感じたり、反対に人工物を自然に感じたり。
そんな感じ方の矛盾がある。
だが、「感じる」など、所詮は人間の小さな器の中での出来事。自然は人間の器には入り切らない。人間を基準にすれば自然は矛盾だらけにも思えるだろう。
散歩しながら思った。もし、ここを誰かと歩くなら、誰と何を話しながら歩くだろう。
一緒に人生を歩んできた人と思い出を語るのが似合いそうだ。
さらにこんなことを思った。
誰と歩くか、何を語りながら歩くか……それぞれにふさわしい散歩道があるのではないか。
過去を語るための散歩道。
未来を語るための散歩道。
そして、親から子へ語り継ぐための散歩道。
過去を語るための散歩道は、こんなふうに自然に囲まれた場所がいい。静かに語るには、喧噪は邪魔者だから。
穏やかな木漏れ日があればなおいい。
思い出をいっぱい抱えた二人だから、当然それなりの年齢に達している。そんな二人にも歩きやすい平らな道がいい。
平ら、と言えば、そんな二人なら「思い出」も「感情」も平らになっているかもしれないな。
未来を語るための散歩道は、たとえば都会の上り坂。
若い男女が、夢を語るには可能性に満ちた都会がいい。
そして、困難の先にある未来を信じるためには上り坂がいい。
親子で歩くのは、子どもが生きていく場所が最もふさわしい。
「あれなあに?」と子どもが質問する。
親は答える。これから子どもが生きていく世界の仕組みと、そこで生きていくための知恵について。
場所が変われば、仕組みも知恵も変わる。
だから、子どもが生きていく場所が最適だと思うのだが、実際は家の周辺ということになるだろう。
でも、そこで親の「世界を見る視線」を学べば、それでいいのかもしれない。それこそが親が子に伝えたいものだろうから。
そんなことを考えながら秋の穏やかな陽射しの中を歩いた。
何にしてもここを最も紅葉の美しい時期に訪れることができたのは僥倖であった。
真っ青、真っ赤、真っ黄色…
天候に恵まれていないこともあって、
今年は、まだ真っ赤な紅葉をみずじまいです。
心あらわれるような景色をありがとうございます。
過去でも現在でも未来でもない、たぶん幻想の道。
その不自然ともいえる赤に染まってみたい気がします。
幻想とわかっているのなら、心置きなく。
紅葉が遅れていて、まだ燃えるような赤に出会うことができません。
羨ましい光景です。
>未来を語るための散歩道。
>そして、親から子へ語り継ぐための散歩道。
こういう視線を持ったことがありませんでした。私の中には語るための場所というものが存在していなくて、カッコよく言えば「道程」みたいなものでしょうか。それを語った時に歩いた場所がまた新たな語りを生む、、、感じ。
裏を見せ 表を見せて 散る紅葉 を思ってしまいました。死に際して詠んだ句というのは抜きにしてですが。
新緑の下を歩きたい人、紅葉の中を歩きたい人‥‥相手によってもかわりますね。
自分はどう思われてるんだろう。絶対一緒に歩きたくない人だったりして(笑)。
実は私もその句を思い浮かべながら散策したのです!
ただ、裏なら裏のまま、表なら表のまま、ヒラヒラと落ちていくのが多かったです。裏も表も見せるのは少数でした。人間も裏も表も見せる人は少ないでしょう。
田舎はドアトゥードアで車ばかり。
以外と家族とは語っているようで語っていませんし。お酒のんだときくらいでしょうか。
忘れていた散歩を思い出させてもらいました。
うちも田舎なので、移動はすべてクルマです。バスも走ってないし‥‥。
散歩も子どもとするくらいですね。家の中で相手するのは疲れるので(笑)。
家族との会話は、すくないです。というか、子ども以外とはほとんど話していません。反省しなきゃ!
一応弁護しておくと、ベンチは城跡の入り口にあるので、雰囲気を壊すこてはないかな、と。
子どもや子ども連れを狙ってのデザインなんでしょうが、もっとシックなほうがピッタリするのも確かです。
ちなみに城跡内には何の色気もない石製のベンチがありました。