日々の出来事、言葉との出会いを綴っていきます。何年後かの自分のために。

by usagi-kani

自作教材(自分流解釈)

授業で使用した自作の教材を紹介していきたい。
ご同業の方のご意見などを伺えれば幸いである。

今回のは短歌の授業の終わりに実施するもの。
15年くらい前に作成したものだが、引用する生徒作品を替えるくらいで、基本的にそのまま使っている。

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「自分流解釈」にチャレンジ!

 これから授業で短歌を学ぶわけですが、初めに少し考えてみましょう。
 短歌(別に短歌に限ったことではないのですが)を味わう、とはどういうことでしょう? 
 歌の意味がわかればいいのでしょうか? それは「理解」かもしれませんが「味わう」とは違うのではないでしょうか。
 食べ物だって、「味わう」ためには口の中に入れなければなりません。「喉ごし」まで感じるためには飲み込まねばなりません。つまり「味わう」ためには自分の中に入れることが必要なのです。だから、短歌の場合も「その短歌を自分の中に入れてしまう」ことをしてみましょう。それを「自分流解釈」と呼ぶことにします。
 「解釈」とは、辞書によれば「物事やことばの意味をわかりやすく説明すること」です。だから、短歌の場合なら「その短歌の意味をわかりやすく説明すること」になるのですが、意味のわかりにくい短歌ならともかく、誰が読んでもわかることをわざわざ人と同じように「解釈」するのではつまりません。そこで、その短歌を読んで感じたこと、あるいはその短歌に触発されて心に浮かんだ風景やストーリーを自由に書いてみましょう。それが「自分流解釈」です。「自己流…」としないのは、あくまでもとの短歌にそって創造したものであって、勝手気ままに作ったものではないからです。「自己流」ということばには悪い印象があって後者のように取られかねませんから。
 自分の経験と想像によって満足いく「自分流解釈」ができたとき、その短歌を十分に味わい、自分の内に吸収したことになるのです。

 では、具体的にある短歌を例に「自分流解釈」を試みてみましょう。

吾をさらいエンジンかけた八月の朝をあなたは覚えているか        俵 万智

 わかりやすい口語の短歌ですから、歌の意味は一読して理解できますが、あえて「一般的解釈」をしてみると
「私をバイクのタンデムに乗せ、エンジンをかけて私を連れ去った八月の朝。あの朝をあなたは覚えているかしら」
ということになります。そのまんまでつまらないですね。

 さて、「自分流解釈」ならどうか。

「同じような毎日の繰り返しに、夏の太陽の明るさとは反対のやるせない憂鬱を感じていたあの八月。ある朝家を出ると、白いTシャツにGパン姿のあなたがいた。どうして、と問いかける間もなくヘルメットを手渡すあなた。そのまま一言も話さず、行き先さえ知らずに二人はバイクで走った。エンジンの振動がまるで私の鼓動のようだった。あのとき私がしがみついたのは、あなたの背中ではなく、未来だったのかもしれない。ねえ、あなたは二人の未来を決めたあの朝を覚えてる?」

 ちょっと遊びが過ぎたかもしれませんが、「自分流解釈」の「感じ」くらいはわかってもらえたと思います。

 もう少し例を、今度は生徒作品を挙げてみましょう。

いるはずのない君の香にふりむいておりぬふるさと夏の縁日        俵 万智
「金魚すくいや輪投げ、お面……縁日に一人で来るのって、なんて悲しいんだろう。あなたが仕事が忙しいって最近会ってくれないから、私田舎に帰って来ちゃったよ。もうこんな苦しい気持ち、長引かせたくない。だから、ある決心をして。なのに、あなたが好きな紺色の浴衣を着ている私がいる。どうして、と問うまでもない。本当はわかっている。わかっているけど……。
 綿アメを買って帰ろう、そう思って歩き始めたとき、ふわっと後ろからたばこのにおい。あなたに染みついているマルボロの、におい。胸がきゅっと苦しくなった。もう認めるしかないなぁ。あなたに会いたいってこと。少し、悔しい。振り向いた時から、私の負け。」(高1 女子)

さよならに向かって朝がくることの涙の味でオムレツを焼く          俵 万智
「最近私はついてないんです。愛鳥のピーコはどっか行っちゃいました。自転車なくなりました。仕事はクビになりました。そして……恋人もなくしちゃいそうなんです。私に愛想つかしちゃってるんです。今は自分が悪いってわかってるんです。自分でも、自分が嫌いです。だから、私は今日で変わると決心します。恋人ともけじめをつけます。あの人が好きだったオムレツを作りながら……あの人とも今までの自分ともさよならします。あれ、涙が出て来ちゃうよ。」(高1 女子)

 同じ詩や短歌を読んでも、感じ方は人それぞれ違います。「自分流解釈」はいわば「個性的な創造の営み」(!)であると同時に、自分という人間の感性を発見する試みでもあります。面倒だ、なんて言わずにトライしてみましょう。
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by usagi-kani | 2006-10-14 04:42 | 学校・教育 | Comments(4)
Commented by kazemachi-maigo at 2006-10-14 07:33
短歌もどきをやっているくせに、俵万智の歌集、読んだことがないんです。
機会がないといえばそうなんですが・・・影響を受けてしまいそうで怖いのかもしれません。

それにしても、授業で短歌を扱っていたのにびっくり!
私のときは、そんな気の利いた授業はありませんでした。
だからずっと、俳句や短歌はある程度年配のかたがたがたしなむもの、または純粋に歌人と呼ばれる特別な才能の持ち主だけの世界・・・という観念が消えなかったのです。
今思うと、多感な青春時代や本当にどろどろの恋愛騒動の渦中にあったとき、歌を詠んで来なかったことがもったいなかったような気がします。
あの頃であれば、自分はどんな歌を詠んだだろう、と自分を探したい気持ちです。


だから、こういう授業で短歌に普通に興味を持ち、自分の日常生活の近いところに存在させるということに興味と感銘を覚えます。
国語って、究極にはひとさまと自分の心を想像するためのもの、なんですよね~。
言葉や文字から、そこに書かれていないものに気づく・・・というような。
私も、受けてみたい授業だと思いました。
Commented by usagi-kani at 2006-10-16 05:53
kazemachi-maigoさん、コメントありがとうございます。
国語は英語・数学と比べて軽視(?)されているので、授業時間数もそう多くはなく、詩や短歌はなかなかできないのが実情です。俳句はここ数年まったくやったことがないですね。理屈でなく、感性の部分が多いものは、やはり授業では扱いづらいです。

「多感な時代に詠んでいたら」の気持ち、よくわかります。でも、今短歌という表現手段をお持ちになっていることだけでも素晴らしいことだと思います。生きた証になりますから。
Commented by ジョニー at 2006-12-23 00:02 x
はじめまして。
「俵万智」で検索してたら辿り着きました。
ステキなブログにめぐり合えて、心がホクホクしています。

「多感な時代」に細々文を書いていましたが、今読み返すと、勉強が足りないなぁと思います。
もっともっと本を読んでおけば、
もっともっといろんなものを見ていれば、と。

英語・数学よりも、国語が一番大事だよなぁ、
なんて最近特に思います。
Commented by usagi-kani at 2006-12-23 08:48
ジョニーさん、コメントありがとうございます。

>もっともっと本を読んでおけば、
もっともっといろんなものを見ていれば、と。

ジョニーさんのブログの記事もいくつか読ませていただきましたが、まだお若いですよね?であれば、これからでも時間はありますよ。
私は……もう人生の折り返し点はとうにすぎて、自分を変える時期ではなく、自分を残す時期になったことを感じています。それで、ブログを書いてるわけで……。
これからもよろしくお願いします。