2006年 08月 30日
村上春樹『鏡』論現実には存在せず、しかも「僕以外の僕」を映し出す「鏡」。それは一体何なのか。
恐怖体験の夜、「僕」は風にあおられて開閉する戸の音を「うん、うん、いや、うん、いや、いや、いや……」と表現する。「うん」と「いや」の対立。これが、何かの対立を象徴するものだとすれば、何を象徴していると考えられるだろう。
一般的には「現実の僕」と「心の中に潜む(自分でも意識していない)僕」と考えてよいだろう。その両者がせめぎ合っている、その対立を「うん」と「いや」で表している、と。
この作品だけの解釈であれば、それが正当だと思う。
しかし、ここでは敢えて別の解釈を試みてみたい。
他の村上春樹の作品、例えば『ノルウェイの森』などと絡めて解釈すると、別の見方が見えてくるからだ。
『ノルウェイの森』で描かれているふたつの対立概念(諸説はあるだろうが)は「生」と「死」である。そして、この『鏡』もやはり同様の作品であると思うのだ。(と言うより、村上春樹作品のほとんどが「生」と「死」をテーマにしていると私は考えているのだが。)
恐怖体験のそのとき、その場所で、「生の世界」と「死の世界」がクロスしたのである。「鏡」はその両者をつなぐもの、つまり(生の世界からの視点で言えば)「死の世界への入り口」として出現したのである。(そう考えると、どこに出現してもよいはずの「鏡」が、学校の「玄関」に現われたことの意味づけも可能になる。)
……僕はその時、最後の力をふりしばって大声を出した。(中略)それで金しばりがほんの少しゆるんだ。それから僕は鏡に向かって木刀を思い切り投げつけた。……
この場面は、普通に考えれば、自分を支配しようとする「鏡像」に向かって木刀を投げつけるはずである。が、「僕」は「鏡」に向かって投げつけている。
これは、「僕」が、「僕」と鏡像の間にあるもの=「鏡」が死の世界への入り口であることを感じ取ったからだ。鏡像を倒しても、入り口が残っていては「死」から逃れることにはならない。だから、「僕」は「鏡」を破壊することで「死の世界」の入り口を閉じようとしたのだ。死からより遠くに(もちろん物理的な距離ではない)逃れるために。
この考え方の問題点は、『鏡』の作品中のどこにも「僕」が死を考えるような出来事が書かれていないことであろう。自由に生きる若い青年が、どうしてこの夜に死と向かい合うことになったのか、その理由が全くわからない。だから、「鏡」を「死の世界への入り口」とする考え方は的外れに思われるだろう。
だが、そこにこそ作者の死に対する考え方が読み取れるとは言えないだろうか。「死」は我々に予告してやってくるものではない。我々はいつどこで「死」にとらえられるかわからない。我々はいわば「見えない死」に囲まれて生きているのであり、それがいつ「見えるもの」として現出するかは誰にもわからない。そう、「鏡」が突然出現したように……。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。(『ノルウェイの森』)
そして、それに気づいた人間は、おそらく無常観や虚無感にとらえられて、「生」のエネルギーを喪失してしまう。
だから、彼らが生き続けるためには、意識的に「死」から目をそらし続けるしかないのだ。それが「僕」が家に「鏡」を置かない理由であろう。「僕」は「鏡」を見ないのではなく、「死」を見まいとしているのだ。
勉強になりました!