2013年 07月 03日
『羅生門』授業(板書)ノートそうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑と一緒に、心に中へ入ってきた。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。
老婆には刃が突きつけられている。その刃の持ち主が自分に対して憎悪と侮蔑を抱いたらしい……それを感じ取った老婆が「このままでは殺される」という恐怖を覚えたであろうことは想像に難くない。つまり、この後語られる「老婆の論理」…「悪いことをした者には悪いことをしても許される」「自分が生きるために仕方なくする悪は許される」…は、殺されたくないがために苦し紛れに口にした論理に過ぎない。その理論に基づいて女の髪の毛を抜くことを決めたわけではない。
しかし、そんな苦し紛れの理論でありながら、特に破綻したものではないし、素直に我々読者の胸に入ってくる。それは、老婆が明確に言語化することはなくても日頃から感じていたことだからであり、我々にとってもそうであるからだ。はっきり意識することはなくとも、そういうものだ(あるいは、そういう考えもあるだろう)、と思って我々は生きているのだ。
では、なぜ我々は「老婆の論理」を「そういうものだ」と思っているのか。生まれつき備わっている本能的な考え方なのか。教育によってすり込まれたのか。生きているうちに自然に身につけたのか。それとも……。
今年度の授業ではそんなことを考えさせてみた。
(感想は書いた生徒自身に著作権があると思われるので隠しました。)